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Channel: 気と心と宇宙法則
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糖尿病

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理由はわからないが、糖尿病は、サイ気療で、簡単に治る。
 
同じように、腎臓の病気も、サイ気療で、簡単に治るのだが、
 
腎臓の病気は腎炎とか腎盂炎とか言われて、少なくとも病名に炎がつくから、腎臓に炎症が起きていることは間違いないから、サイ気療によって、簡単に治る理由も、容易に想像が付く。
 
 
しかし、糖尿病の場合、膵臓で作られるインスリンの量が不足することに起きることから、膵臓に何らかの不調が起きていることは間違いないと思うが、その原因については、本を見ても、インターネットで調べても、はっきりしない。
 
少なくても、膵臓に炎症が起きていることを示すようなことは、どこにも出てこない。
 
 
サイ気療の立場からすれば、腎炎のように、病名が腎臓に炎症が起きてなる病気であることが、はっきりすれば、その炎症を止めればいいわけだから、
 
腎炎や腎盂炎等の腎臓の病気が、サイ気療によって簡単に治るわけもよくわかるが、
 
 
糖尿病のように、原因が、炎症によって起きているかどうかわからないような病気は、サイ気療によって、なぜかくも簡単に治るのか、私も、判断に、迷うばかりである。
 
実際、糖尿病について本で調べても、ホルモンの血糖値の調整作用の破たんとか、遺伝子がどうだとか、はては、自己免疫性がどうだと言って、我々素人には、さっぱり要領を得ない。
 
 
せめて、糖尿病の場合、炎症という言葉だけでも、どこかにあれば、なるほど、と思うのだが、こと糖尿病については、そういう言葉は出てこない。
 
炎症という言葉が、どこにも使われてなくても、糖尿病は、サイ気療によって、簡単に治るのだから、
 
糖尿病も他の病気同様、きっと、膵臓のどこかが、炎症を起こしているのだろう、と思っている。
 
 
糖尿病なんか、直接私の所に来て治療を受ける必要もない。
 
電話による遠隔治療だけで、糖尿病を治した人は、何人もいる。
 
糖尿病が簡単に治ると言われて、サイ気療を受けたことのある人は、「なるほど」、と納得し、受けたことのない、疑い深い人は、「そんなバカなことが!」などと考える。

上村・全柔連会長辞任せず

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暴力、助成金問題、セクハラ等、相次ぐ不祥事にも関わらず、上村全柔連会長は、一旦示唆したとされる辞意を、撤回するつもりらしい。
 
 
ところで、幕末、戊辰戦争の英雄、越後長岡藩の河井井継之助のモットーは「進むときは人任せ、退く時は自ら決せよ」だったと言われる。
 
この意味は、昇進は他人任せ、引退するときは、周りの意見を聞いてはいけない、自分一人で決めなさい、ということである。
 
 
昇進は他人任せというのは、上司にゴマすったり、目立とうと思ってスタンドプレーしたり、夜陰に紛れて上司を訪ね、暗に昇進をおねだりするような、みっともない真似はしてはいけない。
 
また、上の人間は、そうやってモノほしそうに自分にすり寄ってくる人間を、昇進させたりしてはならない、という意味でもある。
 
 
なぜそういう人間を昇進させてはならないか、というと、それは、そういう人間を役職に就けたら、そういう人は自分のことしか考えていないから、才能のある部下と、才能争いをしたり、自分の地位を脅かしそうな有能な同僚・部下を、スポイルしてしまうからである。
 
その意味を、正しく理解している人は、少ないようだが、「退く時は一人決せよ」という意味は、
 
自分の身近にいる人たちは、経済的にも、世間的にも、本人を当てにしている人達ばかりだから、そういう人達に相談したら、反対されるのは目に見えているから、相談していけない、という意味である。
 
 
上村全柔連会長が、辞めない、と言っている理由も、おそらく、自分の周りの人たちは皆、「辞めないで欲しい」と切に希望してるから、というものだと思う。
 
直接本人に確かめたわけでもなく、あくまでも、憶測にすぎないが、大なり、小なり、彼が「辞めないで頑張る」と言っている理由は、そういうことだろうと思う。
 
だから、河井継之助は、「辞める時は一人で決断しなさい」と言うのである。
 
 
河井継之助だけでなく、西郷隆盛も次のようなことを言っている。
 
「廟堂に立ちて大政をなすは、天道をおこなうものなれば、些(いささか)たりとも私を挟みては済まぬものなり。いかにも心を公平にとり、正道を踏み、広く賢人を選挙し、その職に任(た)えうる人を挙げて政柄(せいへい)執(と)らしむるは、即ち天意也。それゆえ真に賢人とみとむる以上は、真にわが職を譲るほどの(人)でなくては叶わぬものぞ……。」
 
少し、前置きが長くなったが、ここで私が言いたかったこと、つまり、引用したかったことは、
 
後半の「それゆえ賢人とみとむる以上は、真に我が職を譲るほどの(人)でなくては叶わぬものぞ」という部分である。
 
 
ここも又、普通では、なかなか理解しがたい(誤解する)ところだと思うが、
 
西郷さんは、その人が、自分より(人格的に)優っている人と思ったら、すぐその人に自分の職を譲るようなそんな人でなければ、その地位に就けてはいけない、と言っているのである。
 
 
つまり、反対からすれば、一旦、その地位に就けたら、いつまでも、職(地位)にしがみつくような人を、その職に就けたらいけない、と言っているのである。
 
なぜかって?
 
それは、そういう人は、自分のしか考えないから、周囲の人を蹴落したり、いじめたりするからだよ。
 
地位にしがみつくようなバカが、しかも、長いことその座に居座ったら、組織がガタガタになるのは、火を見るよりも明らかなことじゃないか。
 
 
これらの視点から、この度の上村全柔連会長の言動を眺めると、
 
「あきれた」というか、「笑止」というか、正に、西郷さんや河井継之助が、就けてはいけないと言った人が、その職に就いてしまっている、としか言いようがない。
 
 
全柔連ばかりではない、こういう馬鹿が、鹿児島の私の身の周りにも、何人かいる。
 
直接、名前を挙げるわけにはいかないが、鹿児島市の教育界や、県の選挙管理員会にも、何年も何年も、その職に居座って、何ら恥ずかしさを感じていない、トップがいるようである。
 
他所に長いこといて、久しぶりに帰って来た、私のような者でも、これだけ気が付くのだから、こういう公職を私物化している例は、その他にも、沢山あるに違いない。
 
また、これらの不正・不義を糾すべき役目の、新聞・テレビ等のマスコミも、全く声を上げようとしてないところからすると、こいつらもまた、同じ穴の貉(むじな)なのか、と疑わざるを得ない。
 
 
こういったわが郷土の様を見聞きするたびに、鹿児島なんて、地理的にも、また時代の流れにも、世間から大きく取り残されてしまっているんじゃないか、と思わざるを得ない。
 
 
会社や組織が栄えたり、衰えたり、ひいては倒産したり、潰れたりするのは、それだけの理由が、そこにあるんだよ。

無念無想について

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無念無想とは、意識が、全て、なくなって、眠ったような心の状態を言うのではない。
 
無念無想になっても、ちゃんと、霊性意識という意識は働いている。
 
 
でなかったら、自分が無念無想という精神状態になっている、ということすら、わからないわけじゃないか。
 
 
霊性心について、天風先生は「研心抄」という本の中で、次のように言っている。
 
「そもそもこの心は吾人人類が万物の霊長である点を現実に具象する心なので、この心が吾人人類に実在すればこそ、自己とは何かというような他の一切の生物が断然なし得ない、自我の本質を悟入自覚することができるのである」
 
つまり、霊性心という心があればこそ、自我の本質、つまり本当の自分とは何かということを悟ることができる、と言っているのである。
 
私が上で、今、自分が無念無想という精神状態になっているということがわかるのも、霊性意識あるから、と言っているのも、これと同じことである。
 
 
では、この霊性意識はどのような条件下で発現するか、ということであるが、天風先生は、「研心抄」の中で次のように言っている。
 
「要するに、『われ』なるものの本体たる実在のものを(霊魂のこと)、わが意識の中に完全に把握思量し得る信念的自覚念というものは、心を霊的境地という特別の境地に置かぬ限りは発動せしむることが出来ないものである。」
 
 
つまり、ここで天風先生は、本当の自分(真我)とは、霊魂という気体である、ということがわかるためには、信念というものが必要である。
 
その信念というものは、霊性意識の中から出てくるものだが、その霊性意識とは、心を霊的境地に置かぬ限りは発動してこない。
 
 
しかるに、霊性意識が発動すると言われる、霊的境地とはどういうものかというと、それが無念無想という心の状態である、と言っているのである。
 
要は、無念無想にならないと、霊性意識は出てこない、霊性意識が出てこないと、本当の自分とは何か、ということもわからない、
 
なぜなら、本当の自分というものがわかる、信念的自覚念というものは、霊性意識から出てくる、と言っているのである。
 
 
繰り返すが、無念無想の精神状態とは、眠ったようになって、全く意識がなくなることではない。
 
無念無想の状態でも、霊性意識という意識が働いている。
 
ただ、無念無想とは、雑念妄念を発生させる、本能心とか、理性心とかが、全く、働かなくなった心の状態を言う。
 
 
ところで、本能心、理性心について簡単に説明すると、次のようになる。天風先生の「研心抄」からの摘記である。
 
「そもそも本能心と称される心は、吾人の肉体生命の生存を確保するために存在しているものなので、従って人類生命中の動物的方面の生活と生存を現実にするに必要とする各種の作用や職分を、この心がその元となって司っているものなのである。」
 
「たとえば食欲とか、性欲とか、その他の肉体の欲求から発生する各種の欲望又は、一切の感覚情念等の如きものがそれである。」
 
「が特に注意すべき問題は、一般の動物的感情情念、即ち闘争心、復讐心、憎悪心、猜疑心乃至は嫉妬心などというような、いわゆる動物本来特有の低級心性も、この本能心から発露されているということである。」
 
 
理性心については、次のように言っている。
 
「この心はいわゆる事物事象に対する推理推考を司る心なので、俗に理性というのは、この心の活動現象に対する名称なのである。」
 
「しかし、理性心には完全に本能心を統御するする力がない。即ち理性心というものは、前述したとおり事物事象に対する推理推考を司る心で、従って事物に対する是非、善悪
曲直、正邪という事を批判分別働きのみを有する心で、従って絶対的の統御力は有していない、所詮は相対的なものなのである。」
 
霊性心については、
 
「この心は、吾人人類の精神のみに特有された極めて優秀性を有する最高級なもので
普通人には容易に発現し得ないと言われる、かの霊感とか霊智とかいうような特殊のものは、何れもこの心から発露するものなので、いわゆる神秘的の偉大な思索や崇高な思想というようなものは、一切この心を本源として形成されるものである。」と言いつつ、
 
「就中、特に深重な注意をもって考慮しなければならないことは肉体生命に属する本能心に対する統御である。」と言っている。
 
「というのは多くの場合、人間の心というものは、何等の訓練も啓発も施さず、漫然とそのまま打ち捨てて置くと、この本能心が精神領域の大部分を占拠して活動するものなのである。ところが、この本能心というものは、元来肉体生命に付属する心なのであるから、常に肉体生命の欲求だけを満たすべく然も極めて無遠慮に、その欲するままに振る舞おうとする。さながら手の付けられない野獣を檻の中から出したように、…そこでこれを適宜に統御しないで打ち捨てて置けばそれこそ大変なので、人間をやれ病だ、煩悶だ、苦労だ、という悲劇の舞台に引き入れてしまう。」
 
 
読者の中に、「無念無想」について聞いてくる人がいる。
 
先ほどから繰り返し言っているように、無念無想になるということは、全く、意識がなくなることではない。
 
 
無念無想といっても、霊性意識という意識は、働いている。
 
霊性意識が働いているということからすれば、無念無想と言っても、厳密な意味からすれば無念無想とは言えないかもしれないが、
 
霊性意識の何たるかのわからない人には、本能意識や理性意識が出なくなっていることを以て、無念無想、と説明した方が、わかりやすいのかもしれない。
 
 
つまり、雑念妄念が、時々出てくるような心の状態は、まだ、無念無想の極地、即ち三昧とは言わないのだよ。
 
三昧になって、霊性意識が発現してきて、本当の自分というものがわかるまではね。

近いうちに上京します

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来る、6月21日(金)~23日(日)の間、上京します。
 
その際、ご相談をお受けしますので、予め、メールで申し込んでください。(電話は不可)
 
なお、その時は、氏名、住所、連絡先の電話番号等、ご自分の身元を明示するようお願いいたします。
 
 
ただ、今回の面談は、本来の目的があり、スケジュールの空いた時間を利用して、行われるもので、一人当たり10分程度の時間しか、割くことが出来ませんので、ご了承下さい。
 
 
面談の場所は、ご相談の上で決めたいと思いますが、私のホテルがJR新橋駅(烏森口)近くにある関係上、そのホテルのロビーか、或いは、近くの喫茶店になると思います。
 
今回は、病気の治療は、一切、行いません。従って、面談は無料です。
 
但し、6月21日(金)、22日(土)の両日とも、夜は、予定が入っていて、お目にかかれませんので、悪しからず。
 
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(仕事が忙しいので、電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
遠隔を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。

風邪

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風邪を簡単に治せるのは、世界広しといえども、私くらいのものじゃないかしら。
 
 
先日、咳が止まらないという人が来た。
 
胸から、喉に至るまで、気管支を、指で触ること約15分、「どうですか」と訊くと、「あら、不思議、喉のイガイガが治っている」と言う。
 
 
訊くと、色々薬を飲んだが、咳が止まらなかった、と言う。
 
私は、「薬なんかで、風邪が治るもんか!胸から、喉にかけて、神経が炎症を起こしている、その神経の炎症が、喉を刺激するから咳が出るんだ」と言った。
 
 
何遍も言っているが、医者が風邪を治せないのは、神経の炎症を止められないからなんだよ。
 
もっとも、神経の炎症を止められないのは、風邪に限ったことではない。
 
これは経験からくる仮説ではあるは、おそらく、難病と称される病気の殆どは、この神経の炎症によるものと、思われる。
 
 
冒頭で、「おそらく、世界広しといえども、風邪を簡単に治せるのは、私一人じゃないか」と言ったのは、法螺でもなく、ましてや、はったりなどでは決してない。
 
 
だって、私の指先には、炎症を起こした神経が、はっきりと触ってるもの。
 
はっきり、触れるから、それを、ただ、なぞっているだけだもの。
 
 
世界を探したら、あるいは、「気」で風邪を治せる人は、私の外にもいるかもしれない。
 
 
しかし、炎症を起こした神経を触って、風邪を治しているのは、私くらいのものだろう。
 
この治療法は、私の、まったくのオリジナルで、誰に教わったものでもない。
 
天風先生の本を読んでも、こういうことは、決して書いてない。
 
おそらく、見よう見まねでやっているうちに(否、直観かもしれない)、指先の触角が異常に鋭敏になった為ではないかと思われる。
 
 
そう言えば、毎週、月曜日から金曜日まで、毎日、朝、6~7人の遠隔治療をしているが、一人として、風邪を訴える人はいない。

低気圧と頭痛

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低気圧と頭痛が、何か密接な関係がありそうだ、と思っているのは、私ばかりではないらしい。
 
6月23日(日)の読売新聞、編集手帳には、次のようにあった。
 
「梅雨雲が列島を包んでいる。雨の日の頭のズキズキは低気圧と深く関係すると言うけれど…。」
 
 
頭痛については、この欄で、これまでに、何回も、書いているから、贔屓にして頂いている方には、「又か!」と思われる向きもあるかもしれないが、
 
日頃から私は、
 
頭の痛いのは、決して、頭の中、つまり頭蓋骨の内側が痛みを発しているのではなくて、その殆どが、頭蓋骨の外側、つまり、頭皮の神経が炎症を起こし、痛みを発している、
 
そして、神経が炎症を起こすのは、その部分を流れる「気」が不足することから起きる、ということを主張している。
 
 
であるなら、
 
頭痛と低気圧の関係は、低気圧とは、空気の圧力が下がることを言うのだが、
 
空気の圧力が低くなるというのは、「気」の濃度が低くなるから、と考えた方が、より正しいのだろうと思う。
 
つまり、低気圧というのは、空気の圧力が低くなることを言うが、その空気の圧力が低くなるのは、空気を作っている「気」の分量が低下するから、ということである。
 
 
だとすれば、低気圧になって、頭が痛くなるのは、頭皮の神経の中を流れる「気」が不足し、その為に、神経が炎症を起こし、その神経の炎症によって、痛みが出てくる、と考える方が因果関係としてもわかりやすい。
 
 
ところで、数日前、台風4号が、鹿児島に接近し、上陸しそうになった。
 
折しも、頭痛がすると言って、治療に来た人がいた。
 
 
この人は、頭痛と言うよりも、額から顔面にかけての神経が炎症起こしていたから、医科学的に言えば、頭痛と言うよりも、顔面神経痛と言った方が、より正確だったのだろうが、
 
 
頭痛が治るというのは、「気」の足りなくなった部分に、私の指先から、「気」を補充してやるからであることは、疑いないことだから、
 
 
間違いなく、頭痛と低気圧との間には、密接な関係があって、
 
そして、低気圧というのは、空気の圧力が低いことを言うのかもしれないが、
 
空気の圧力が下がるのは、「気」の濃度が下がるから、と考えるのがより合理的ではないか、などと、治療の間、考えた。
 
 
この患者、30分間の治療が終わった後、「頭がすっきりした!」などと言いつつ、喜んで帰ったのは、言うまでもない。

人は死なない

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最近「人は死なない」という本が、評判になっているらしい。
 
なっているらしい、と言ったのは、実際に、買って読んではいない、という意味です。
 
「買って読みたいか?」と、敢えて、聞かれれば、買ってまで読む気はない、というのが正直な気持ちである。
 
 
先日、テレ朝のお昼の番組「ワイドスクランブル」を、見るともなく見ていたら、映画監督の山本晋也さんが、ある人に、インタビューしている画面が目にとまった。
 
山本監督がインタビューしているのは、「人は死なない」という本の著者、東大医学部救急部・集中治療部長の矢作直樹という人だった。
 
 
先ほど、「買って読みたいか」と問われれば、そういう気にはならない、と言ったのは、インタビューの中で、山本さんの質問に対して、まともに答えてない、と思ったからである。
 
「まともに答えない」、というよりも、山本監督が知りたいことに関して、何ら具体例を挙げて、説明していない、といった方がいいと思う。
 
 
私ばかりでなく、多くのテレビの視聴者が、この本に興味を持つのは、日々、人の死に直面している、救急医療センターの責任者が、「人は死なない」、「人には肉体のほかに霊魂というものがある」と言って、
 
これまでの、唯物論を基礎として、科学的に証明されたこと以外は信じない、と思われていた医者という職業の人達の中から、
 
このような、現代医学を、真っ向、否定するような話を、聞かされたことに、一種のショックにも似た感銘を受けたせいではないか、と思う。
 
 
日頃から、「医者は病気を治すことはできない」ということを主張し続けている私も、
 
近藤誠さんの「医者に殺されない47の心得」とか、中村仁一さんの「大往生したけりゃ医療にかかわるな(医者に行くな、という意味)」に続いて、
 
現場の医者の間から、またしても、こういった本が出版されたことに、一種の感動にも似た、感慨を禁じ得ないでいる。
 
こういう点に関しては、彼の勇気ある行動に対して、大いなる賛辞を送りたいと思う。
 
 
さて、「人は死なない」の中で、矢作先生は「肉体は滅んでも霊魂は残る」と言っているらしい、だから、「人は死なない」のらしい。
 
 
しかし、矢作医師は、肝心の霊魂については、何も、具体的に語ってない。
 
だから、私は、「山本監督の質問に対して何も語ってない」と言い、従って、「買ってまで読む価値がある本とは思わない」、と思うのである。
 
 
おそらく、矢作先生は、霊魂、霊魂と口では言いながら、実際には、霊魂というものを見たことも感じたこともないのではないか、と思う。
 
 
私は、毎朝の瞑想の時、自分の肉体の中に、肉体を動かし、肉体を支え続ける霊魂の存在を、常に身近に感じている。
 
 
霊魂は、心の中の雑念妄念がなくなるにしたがって、次第に、その姿をはっきり現し始める。
 
現実に、霊感で見たり、感じたりするからこそ、本当の自分とは、肉体ではなく、この肉体の中にある気で出来た組織(霊魂)であることを、はっきり、確信できるようになり、
 
その結果、肉体は滅びても、霊魂は残る(滅びない)から、「人は死なない」と信念するようになった。
 
 
本の中で、彼は、「肉体は滅びても霊魂は残る」、と言っているらしいが、
 
彼の言動からして、自らの体験を通じてそう言っているのかどうか、非常に疑わしい、と言わざるを得ない。
 
だから、こういう場合、「人は死なない」なんて断定的に言わないで、「人は死なないようだ」とか、「肉体は滅んでも、霊魂は残るようだ」と言った方がいいと思う。
 
 
 
と言っても、彼のように、救急医療の現場と言う、せわしない日常を過ごしながら、「霊魂の何たるかを知ってから、そのことを言え」、と言っても、所詮、無理な要求なのかもしれない。

心は動かないようにしなければならない

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心は、動かないようにしなければならない。
 
ヨガの目的は、心を動かないようにすることである。
 
だから、ヨガの根本経典である、ヨーガスートラでは、その第一章で、ヨーガの定義として、「ヨーガとは心の作用を止滅することである」と謳っているのである。
 
 
このことに関して、付言しておきたいことが、二点ある。
 
先ず、第一は、ヨーガスートラでは、「心を止滅する」とは言っているが、決して、「心を死滅する」とは言っていないこと。
 
次は、この場合、止滅させなければならない心とは、中村天風先生言うところの、いわゆる本能心と理性心のことを言う。つまり、即ち霊性心は含まない。
 
 
もともと、心は、動きやすい性質をもっている。
 
だから、放っておくと、どんどん勝手に動き回るようになる。
 
心は、宇宙の実相ではなく、仮相に対応するように出来ているから、仮相(幻)を追い掛け回す心が、雑念妄念を作る。
 
この雑念妄念が、私たちを苦しめる。
 
 
言葉を変えて言うなら、仮相を追いかけますから、雑念妄念の為に、実相が見えなくなる。見えなくなるから、人生を間違う。
 
この場合の、仮相とは、お金とか、社会的地位だとか、名誉だとか、肉体的・本能的な欲求を満たすためのものを言う。
 
 
心の中の雑念妄念がどうして、私たちを苦しめるのか?
 
それは、雑念妄念が、心の中に多く溜まってくると、「気」の取り入れ口(印堂)が狭くなるからである。
 
狭くなるから、命の中に入ってくる、「気」の分量も少なくなる。
 
外から入ってくる、この「気」の分量こそ、私たちの健康も運命も、つまり、幸も不幸も決定する、究極的かつ根本的要素なのである。
 
 
だから、毎日を、せいわしなく生きている人は、気をつけなさい。
 
毎日の生活を、お金儲けを目的にして働いている人、社会的な地位を得る為に働いている人、そして、なによりも名誉が大事だと思っているような人は、特に、気をつけなさい。
 
そういう人達は、生活そのものが、動きやすい心を、さらに、動きやすくするような生活をしているのですよ。
 
その結果、心の中には、知らぬ間に、雑念妄念がうんと溜まって、遂には、その雑念妄念によって、自ら、健康も運命もぶち壊すようなことになる。
 
 
だから、会社の社長だとか、お金持ちだとか、資産家だとか、誰でも知っているような名誉職に就いているような人は、特に気をつけなさい。
 
貴方達は、のべつ幕なしに、ああでもない、こうでもない、と普通の人は考えないようなことまで考えているでしょ。
 
それが、そういう生活が、不幸の元を作っているんですよ。
 
 
ある日、東京でも有数の規模を誇る弁護士事務所の会長が来た。
 
聞けば、以前、脳梗塞を患っており、その為か、自分の声が割れて聞こえたり、ひっきりなしに、耳鳴りのような雑音が聞こえるのだと言う。
 
 
この人、朝は4時ごろから起きて働き、夜は何時に寝るか聞き忘れたが、本人が長時間働くために、車の運転手も一人では足りず、二人雇って、交代で運転させているのだと言った。
 
また、本人が自慢げにいうのだが、若いころ、初めて弁護士事務所を構えた頃から現在まで、日曜祭日はおろか、盆や正月も、休みを取ったことがないという。
 
さもありなんと、察せられるのは、ある時、一緒に昼食をとった時のことである、一緒に飯を食っている間も、自分は新聞を何紙も広げ見ながら、付いてきた秘書みたいな男に、色々仕事の指図をしている。
 
 
この男、バカかと思った。
 
こんなせわしない生活をしながら病気が治るものか、と思った。
 
いわば、薬を飲みながら、毒を食っているようなものである。
 
 
そして、治療を続けながら、こういうことも思った。
 
「この男、ひよっとしたら、お金さえあれば、いい医者にもかかれるし、高い薬もかえる、そう思って、私の所に来ているのじゃないか、薬や医者で病気が左右されるものなら、お金持ちはみんな健康になり、貧乏人はみんな病気になっている筈じゃないか、ところが、事実は、まったく逆じゃないか」と。
 
 
それに、こういう人達は、私たちのように、金も、地位も、名誉もない人達と違って、持っているお金を守ったり、地位を守ったり、名誉を守るために、人知れない、非常な精神的な苦労をしているものだ。
 
 
安岡正篤先生は、「有名無力」と言って、有名人とは、意外に、力がないものだ、と言っているが、そういうことも言わんとしているのだろうか?

医療現場は忙しい

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お医者さんは忙しいのだという。
 
7月1日の読売新聞「地球を読む」に日本癌協会会長(元国立がんセンター総長)垣添忠生さんという人が、「多忙な医療現場」と題して次のような手記を寄せている。
 
 
「現在の医療現場は非常に多忙である。看護師、薬剤師、技士等もそうだが、特に高度医療に携わる勤務医の多忙さは顕著だ。この負担が軽減できないと、わが国の医療の発展を妨げ、医療不信を広げかねない。」と。(医療不信があるから多忙なのではないか?)
 
 
なぜ多忙かという理由について、彼は、次のように述べている。
 
「近年、医療行為の内容は質的に随分変わってきた。1回の入院中に、患者や家族からいただく同意書は、時に十数種に及ぶ。検査、輸血、手術の同意書に加えて、血液や切除標本の一部を研究目的に使いたいといった依頼もあり、説明の時間は膨大になる。とりわけ治療方針に関する説明と同意は、最も時間を要する作業だ。」と。
 
これを読んで、私は、お医者さんというのは、自分たちを、少し買いかぶり過ぎていやしないか、或いは、お医者さんというのは、一般の常識から大分外れている人たちの集団をいうのではないか、と強く思った。
 
 
というのも、彼が挙げている、次のような解決策についてである。
 
「この問題は、診察室にコンピューター入力などを手助けする診療補助員(医療クラーク)を配すれば一挙に片付く。一部の病院で導入され始めたが、日本全体ではまだまだだろう。医療クラークを導入することで診療報酬を加算する仕組みは、高度医療の外来診療向けには考えられていない。要望に見合う人員配置をすると病院の支出増につながるため、現場の判断で最小限配置されているのが実情だ。」
 
その他にも、病院など関係がないと言っていいくらい、何十年も病院に行っていない私などには、とても理解できないような専門的なことを、いろいろ言っているが、
 
要は、彼が主張したいことは、医者が事務的作業に追われて本来の仕事ができない。
 
医者を、このような事務的な作業から解放する為、医療クラークと称される事務員を、十分雇えるような対策を、国で考えて欲しい、ということだろうと思う。
 
 
気に入らない、と思ったのは、そもそも、同意書をもらう為の、患者に対する説明は、医者の都合によって行われるのか、或いは、患者の都合によって行われるのか、ということである。
 
 
長いこと医者にかかってないから、誤解している点もあるかも知れないが、私の所に来る患者から聞く限り、
 
病気についての説明も、その後、患者からもらう同意書についても、患者たちの為というよりも、自分たちが、医療ミスで訴えられないために、つまり、後で言いわけができるようにする為だけに作られているように思う。
 
 
これでは、自分たちの保身のために、余計な仕事を沢山作って、自らを忙しくしておいて、尻拭いを、国に求めているようなものである。
 
 
医者以外の、一般社会では、自己責任というのが、常識である。
 
つまり、民間の営利企業なら、自分の会社の仕事の効率の悪さは、自らの創意工夫によって解決し、利益を上げようとするのが、常識ではないだろうか。
 
例えば、忙しくて本来の仕事ができないと言って、商品を値上げして、しわ寄せを、お客に負担させるような店があるだろうか。
 
あったにしても、そういう店は、客に嫌われ、たちまち、破産ということにもなりかねない。
 
 
医療業界のトップともいうべき人が、臆面もなく、このような常識外れなことを言うとは、一体全体、お医者さんの世界とは、どういう世界なのか、と大いに首をかしげざるを得ない。
 
 
更には、この人、次のようなトンチンカンなことまで言っている。
 
「医療従事者を助ける職種(例えば医療クラーク)の充実を助ける職種の充実を日本全体で進めるべきである。そうすることで雇用の機会も増え、医療従事者は元より、患者・家族も共に満足する。さらに我が国の医療レベルも向上する。あまり注意が向けられてこなかった領域だが、実は我が国の医療の根幹に関わる重大な問題だと私は強く感じている。」
 
つまり、医療クラークを増やすのは、国民の為になり、国家の為でもある、と言っているのである。
 
 
商売をやったり、物を作ったりして、国家の富を増やし、国民の懐具合をよくするような仕事をしている人が言うならまだしも、
 
お金を稼ぐどころか、診療報酬という税金で賄われているような人が、
 
あまつさえ、身内からでさえ「医者はヤクザや強盗よりタチが悪い」(近藤誠医師)などと言われているような人たちが言うことではなかろう。

泉田新潟県知事の応待辞令

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わが東洋学では、人間ができているかどうか(人格)を測る方法として、応待辞令という方法がある。
 
故安岡正篤先生によると、応待辞令の、「応待というのは、いろいろの問題に応じ、かつその問題をきびきび処理して言うことであります。また、辞令とは、適当にそれに対して自分の考えを表現していくことであります。」とある。(安岡正篤「活眼活学」より)
 
このままでは、正しい意味を理解することは難しいが、要は、問題が起きた時、或いは、問題を処理するに当たって、どういう態度をとり、どういう言葉を使ったかによって、その人の器量を測る人物鑑定法、と言ってよい。
 
 
わが国には、応待辞令と共に、その人ができているかどうかを測る物差しとして、出所進退をみる、という方法もある。
 
言葉通り解釈すれば、その人が進む時どうしたか、又、退く時どうしたかを見ればその人の人格・器量がわかる、ということである。
 
さらに具体的に言うなら、役職に就く時、その人がどうしたか、そして、役職を退く時どういう態度をとったか、によってその人の人間性がわかる、ということである。
 
 
以前にも、このブログで紹介したと思うが、戊辰戦争時の越後長岡藩の英雄、河井継之助の、出所進退についてのモットーは「進む時は人任せ、退く時は一人で決せよ」だったという。
 
「進む時は人任せ」というのは、どういうことかと言うと、卑近な例で言えば、出世成功したいと思って、自らを売り込むような恥ずかしいマネはするな、ということであり、
 
一方、「退く時は一人で決せよ」と言うのは、
 
職を辞する時(退職する時)は、他人に(特に自分の近くにいる人たちに)相談したりせず、自分一人で決めなさい、という意味である
 
この言葉中で、特に大事なのは、後半の、出所進退の退、つまり、退く時が大切だと言われる。
 
なぜなら、進む時よりも、退く時の方が難しく、そして、よりその人間性が現れるからであろう。
 
 
では、なぜ、河井継之助は、「退く時は一人で決せよ」と言うのかというと、自分の近くにいる人たちに相談したら、絶対に反対されるのは、決まっているからである。
 
なぜなら、自分の周りにいる人たちは、その殆どが、その人にすがって、つまりその人を頼りにして、生きている人たちばかりだからである。
 
その人にすがって生きている人たちは、その人が辞めたら、たちまち生活の場、つまり、生きて行く手段を失うことになるからである。
 
すがりついてでも、その人を辞めさせまい、とするのは、当然のことであろう。
 
最近では、全柔連の上村会長の出所進退が、この最悪の例と言えるだろう。
 
 
余談が長くなったが、さて、応待辞令である。
 
今日(7月6日)の読売新聞には、次のような事が、報じられていた。
 
「東京電力の広瀬直己社長は5日、新潟県の泉田裕彦知事と会談し、柏崎刈羽原子力発電所6、7号機(新潟県)の再稼働について説明した。広瀬社長は、原発の新規基準が8日の施行された後、速やかに国に安全審査を申請する方針に理解を求めた。これに対し、泉田知事は地元への説明前に東電が申請することに不快感を示した。」
 
 
ここで私は、どちらが正しくて、どちらが間違っている、ということを論じるつもりは、全くない。
 
またそういうことに関して、判断できるような知識も持ち合わせていない。
 
 
問題なのは、この時の、泉田裕彦知事の東電社長に対する、応待辞令である。
 
記事の中にも、会談中の写真が載っているから、それを見てもよくわかるが、泉田知事は、片手を上げて、相手を追及しているように見え、一方、対面する東電の広瀬社長は、前かがみになって、いかにも、何かを懇願しているように見える。
 
新聞のこの場面は、朝の、ワイドショウでは、どのテレビ局も一斉に流していたから、私も、直接、この場面を目にした。
 
新聞の写真で見る通り、テレビの中の、奥田知事は、裁判官が犯罪を犯した被告を尋問、乃至は、詰問しているようにみえ、一方の東電広瀬知事は、下を向いて、ボソボソ、何かを一生懸命、言いわけしているように見えた。
 
 
中国では、「溝に落ちた犬は叩け」という格言があるらしい。
 
意味は、自分が勝っていると思ったら、或いは、そういう時は、相手が完全に参るまで、徹底的に叩きのめせ、という意味らしい。
 
 
一方、わが国には、「惻隠の情」という言葉がある。
 
弱い立場にある人の心情を思いやりなさい、という意味であろう。
 
 
例え、泉田知事の言い分に理があって、正しかったにしても、
 
あんなに、大勢の報道陣が見つめる前で、いやしくも、わが国を代表するような会社の社長を、辱めるかのような場面は、目を背けたいほど、醜く感じた。
 
また、長幼の序を言うまでもなく、わが国においては、年長者に対しては、一応の礼儀を以て接するのは、常識である。
 
 
安岡先生は、本「活眼、活学」の中で、応待辞令ということについて、次のように言っている。
 
「(応待辞令とは)人物ができているかどうかの問題であります。お互いに相対して座りますと、もうそれだけで、この人はできているなあ、或いは軽薄だなあなどと、大体わかるものです。まして物を言うことになりますと、できた人物の言葉には、必ず味があります。反対に、できておらぬ人の言葉には、たわいのないことが多いものです。
だから、この応待辞令が非常に大切であります。ところがこうなると甚だ微妙なデリケートな問題で、俄か仕立てではどうにもなりません。平素の修養、教養にまつほかありません。特に学校では応待辞令等についてちっとも教えませんから、大学を出ても本当の学問修業をしておらない人は、人間的にまずいのであります。」と。
 
ちなみに、奥田裕彦新潟県知事の経歴をウィキペディアで引いてみると、新潟県知事3期目、年齢50歳、京都大学法学部卒、経済・産業省出身の元キャリア官僚、とある。
 
 
なるほど、経歴だけは立派だが、それだけに、テレビ画面に映るその幼い横顔を眺めていると、この人、本当の勉強を、ちっともしてこなかったんじゃないか、などと考えることだった。

癌で死ぬのではなく、抗がん剤治療で死ぬのだ!

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近藤誠先生は、その著書「医者に殺されない47の心得」の序文で、次のように言っている。
 
「がんで苦しみ抜いて死ななければならないのは、がんのせいではなく、『がんの治療のせい』です。でも、医者は必ず『がんのせい』にします。騙されないように。」
 
 
今、まさに、このままでは医者に殺されかねない、と心配している患者がいる。
 
 
病名は胃癌、病院で抗がん剤治療を受けながら、私に所にも通って来ている。
 
肝臓にも転移している、と言われている。
 
 
病院に検査入院する直前に、私の所に来たから、病院の抗がん剤治療も、サイ気療も、同じように、来る8月で、約1年になろうとしている。
 
 
本人ではないから、病院で、どんな抗がん剤治療をしているか知らないが、普段は自宅で抗がん剤を飲みながら、時々、4~5日、入院しては、点滴によって抗がん剤を行っているようである。
 
 
本人からの、いわゆる又聞きだから、少々正確さには欠けるかもしれないが、投入される抗がん剤も、次第に、多くなって行ったようである。
 
当初は、それ程でもなかったが、しばらくするうちに、点滴治療を受けて、病院から出てくる度に、悲鳴にも似た苦痛を、訴えるようになった。
 
その疲労感や苦痛の程度がいかほどのものか、他人には、うかがい知ることはできないが、「参った」とか、「鍛えられた」という言葉をしきりに使うようになった。
 
 
同時に、嘔吐感が激しくて、食事をとることが出来なくて、だんだん痩せて来て、遂にはガリガリに痩せてしまった。
 
そして、最近では、足腰が弱って、歩けなくなり、それまでは、自分で車を運転して、私の所に通っていたのが、奥さんの運転で、奥さんが付き添わなければ、私の所に来れなくなるほど、体力が落ちている。
 
 
癌の治癒の程度は、抗がん剤が効いているのか、それとも、私の治療が効いているのか、どちらか、よくわからないが、
 
本人からは、癌が縮小改善しているという話は聞いても、癌が進行して、大きく悪化しているという話は、聞かない。
 
 
こういう、日に日に、体力が落ちてくる、彼の様子を見るにつけて、私は、数か月前から、抗がん剤治療を、一時的でも止めるよう、強く勧めるようになった。
 
 
食べれない理由について、医者は、癌が、胃と腸の間を塞いでいて、胃から腸に食べ物が流れて行かないからとか、何とか言って、胃と腸との間を、拡張する処置を取ったりもしたらしいが、
 
その処置をしたのが、数週間前だから、もし、それが本当の理由だったら、今頃は、すっかり、食事ができて、元気になっているはずなのに、未だに、嘔吐感があって、物が食えないと言っているのは、どういうことなのだろうか?
 
 
日頃、私のブログを読んでくれている人は、私が、サイ気療によって、どんな治療をしているか、その方法について、既に、よくご存知と思うが、
 
例えば、胃癌の場合、こう考えている。
 
胃の中に癌があっても、真の原因は、胃そのものにあるのではなく、胃を包んでいる腹膜の神経が炎症を起こし、その炎症の影響を受けて、胃に癌が出来るから、
 
胃の中の癌をいくら切除しても、真の原因は腹膜の神経の炎症にあるのだから、腹膜の神経の炎症を止めない限り、癌は再発する、と思っている。
 
だから、現代医学が癌を治せないのは、腹膜の炎症を止めることができないからだと主張している。
 
抗がん剤治療にしたって、これと同じである、原因が腹膜の神経の炎症にある以上、いくら薬で癌を叩いても、完全に治る筈がない。
 
 
癌に限らず、現代医学が神経の炎症を止められないのは、そもそも、神経の炎症というのは、神経の中を流れて私たちの命を保ってくれている「気」が不足するからであり、
 
「気」の存在すら否定する現代医学に、未来永劫、癌が治せるわけがない、と思っている。
 
 
さて、ここで、この患者が、どうして、それまでは、普通に取れていた食事が、抗がん剤治療を始めてから、それができなくなったか、その理由をサイ気療の立場から考えてみることにする。
 
 
結論を先にすると、抗がん剤が、腹膜の神経の炎症をさらに悪化させたからである。
 
 
ちなみに、この患者、現在、しばらく、抗がん剤を使うことを止めているにもかかわらず、今だに、吐き気があって、食事を満足に取れないでいる。
 
それは、元々、腹膜が炎症を起こして胃癌が出来たのに、抗がん剤治療によって、腹膜の神経の炎症をさらに悪化させ、胃を刺激するから、吐き気をもようし、食事が取れなくなったのだろう、と思う。
 
つまり、抗がん剤を止めても、いまだに吐き気がするのは、抗がん剤によって引き起こされた腹膜の神経の炎症が、まだ治り切っていないからである。
 
 
現に、彼の腹部を触ると、胃の辺りとおぼしき場所に、それまではなかった(抗がん剤治療を始めるまではなかった)大きな固いしこりがある。
 
これは、癌ではなく、神経が炎症を起こして、固くなったものと、私は考えている。
 
 
この固い、大きなしこりについて、医者は、聞いても、まともに、答えてくれていないようである。(私からも、このしこりについて、医者に聞いてくれるように頼んだりしたのだが)
 
 
本人は、食事さえまともにできるようになれば、体力も戻って、元気になると思いますと、しきりに言う。
 
私は私で、次第に大きく、固くなって行く、腹部の固いしこりを感じつつ、このまま、放っていたら、その内、医者に殺されるぞ、と彼に、何度も言ったりした。
 
 
最近になって、やっと、私の危機感が、彼にも伝わったと見えて、しばらく、抗がん剤を使わないことを、医者に承知させたみたいである。
 
 
今日も、この患者が来た。
 
腹部の固いしこりを触りつつ、そして、固かった神経が少しずつ柔らかくなって行く様子を指先に感じて、
 
あと、2~3回も治療を続けたら、固いしこりも軟らかくなって、食事が取れるようになるのではないか、と言った。
 
 
私は、固かった神経の塊が、次第に溶けて行く様を指先に感じて、そう言ったが、
 
患者は患者で、治療中、大変な快感を感じていたらしく、
 
治療が終わった途端、我に返ったように、「気持ちが良くて、つい、うとうと、としていました」という意味のことを言った。
 
神経の中を流れる「気」が不足するから、痛みが出たり、不快感を感じたりし、
 
逆に私の治療によって、悪かった神経の流れが、スムーズに動き出すと、気持ちが良くなるのである。
 
これが、私が、「あと、2~3回も、すれば良くなる」、と考えた所以でもある。
 
 
「角を矯めて、牛を殺す」という言葉がある。
 
私のような素人にも、抗がん剤治療によって、段々体力が衰えて行くのがわかるに、この後に及んで、まだ医者は、新たな抗がん剤治療を始めようとしているらしい。
 
体力が落ちて死んでも、癌が少しでも小さくなれば、それでいいと思っているのだろうか?
 
 
近藤誠先生は、「癌で死ぬのではなく、抗がん剤治療で死ぬのだ」と言う。
 
このように、それこそ、毎日のように、現代医学の実情を、見聞きしていると、近藤先生の言っている言葉が、決して誇張でないことが、よくわかるのである。

医者をとるのか、私をとるのか

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末期がんで、抗がん剤治療によって、医者から殺されかけている人が、「お腹がぐるぐるいって、痛いからお休み(予約キャンセル)します。」と電話してきた。
 
 
お腹が痛いのなら、先に、私の所に来るべきではないか。来れないのなら、自宅へ来てください、とたのめばいいじゃないか。(行ってもいいと言っているのだから)
 
 
お腹が、張って、痛いから、医者に行きます、とは何事だ。
 
これまでも、そういうことを繰り返しで、その結果、悪くはなっても、ちっとも良くはなってないじゃないか。
 
 
心の中では、「このバカが、まだ、わかってない、もう来なくていい!」と罵倒してやりたいのだが、それもかわいそうで、できない。
 
 
医者で抗がん剤治療を受けながら、私の所へも来るというのは、薬を飲みながら、毒を飲んでいるようなものなんだよ。
 
サイ気療と、抗がん剤治療とは、まったく、真逆のことをやっているのだよ。
 
 
抗がん剤治療は、癌細胞を叩くと言いながら、周辺の神経も叩いて、神経の炎症を増長させている。
 
私のサイ気療は、神経の炎症を止めることによって、病気(癌)を治しているんだよ。
 
 
先日、医者を取るのか、サイ気療をとるのか、どっちかにしろと、迫ったつもりだが、こんな調子では、この野郎、まだ、わかってやしねえ。

体から、白い煙が立ちのぼる

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先日、治療にみえられた人が、私に向かって「貴方の全身から、白い煙状のものが立ちのぼるのが見える」と言った。
 
 
別の話になるが、「私の事務所の扉を開けた途端(私の事務所は22坪程ある)、何か、頭にサッと来るものを感じた」、と言った外人さんもいた。
 
又、4~5人で歓談している時、正面にいて話をしてない人、つまり、正面で話をしているわけではない、はす向かいの人が、しきりに、額の汗を拭っているから、
 
「どうしたんですか?」と訊いたら、「何か貴方の方から、何か熱いものやって来るんですよ」と、「貴方のせい」、と言いたげな人もいた。
 
「香を炊いてるのですか?」とか、体から、いい匂いがすると言いつつ、「オーディコロンでもつけているのですか?」と訊く人もいたりした。
 
 
不思議と言えば、電話による遠隔治療ほど、不思議なものはない。
 
毎日のように、何人もの患者さんを相手にしていて、不思議、なんて言うのも無責任に聞こえるかもしれないが、実際、こういうことは、患者さんはわかっても、私にはわからないのだから、仕方がない。
 
 
普通には難治と言われている病気が、電話一本で病気が治るというのも、不思議と言えば、不思議だが、
 
その時、受話器に引っ張られたり、押されたり、体がぐるぐる、回転運動をしたりするというから、こういうことに至っては、不思議を通り越して、不可解とでも言うべきことである。
 
 
白い煙にしてもそうだが、これらのことは、私自身には、全く、わからない。
 
つまり、私は、全く、見ることができない、感じることもできない。
 
しかし、私に限らず、これらの現象は、誰にで、一様に、見えたり、感じたりすることができるものではなさそうである。
 
つまり、見える人には、見えるが、見えない人にはまるで見えない、感じない人は、全く感じることができない、もののようである。
 
 
私には、見えないし、感じることもできないが、
 
それでも、瞑想の時ばかりでなく、日常の生活においてさえ、自分の肉体の中に、気の世界があることを感じている身としては、まったく、理解できない現象とも言えない。
 
というよりも、「こういうことは、確かに、あり得るのだろう」と思う。

サイ気療は教えません

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「私も、貴方のように、他人の病気を治して、人の為、世の為に尽くしたいから、サイ気療のやり方を教えてほしい」、と言ってくる人がいる。
 
 
思い返してみると、直接、そういう言葉で言わなくても、過去に、同じ目的で、私に近づいて来た人は、沢山いたように思う。
 
今になって、その事に気が付くということは、おそらく、当初から、自分には、全く、その気がなかったためだろうと、思う。
 
 
なぜ、私が、サイ気療を、教えないのかと言うと、
 
先ず第一に、自分自身、今もって、修業中の身であり、人を教え導くほどの実力はない、と思っていることと、
 
次に、サイ気療のように、「気」でもって病気を治すなどと言うことは邪道、とまでは言わないまでも、少なくても、正道ではないと、思っているせいである。
 
 
本来、ヨガにおいても、禅でも、修業は、自分自身の安心立命の為にするもので、人の病気を癒したり、神秘的なことをやって、世間を驚かしたりする為にあるものではない。
 
だから、ヨガでも、禅でも、神秘的な力の発現を求めて、何かをするということを邪道(魔境に入る)と言って、厳しく戒めているのである。
 
 
サイ気療のような、いわゆる神秘的な力は、修業の過程で、副次的かつ派生的に現れてくるものであり、
 
ヨガにおいても、禅においても、心の安定、つまり安心立命が主であって、「気」で病気を治すなどということは、あくまでも、従ということになる。
 
本来、従であるものを、あたかも、主であるように勘違いして、追い求めて行った先に、魔境と言われる、人生を破壊するような不幸が待ち受けている、と教えているのである。
 
日蓮さんが、「禅天魔」と言うのも、そういうことだろうと思う。
 
 
話は変わるが、先日、日テレの「たかじんのそこまで言って委員会」に、元オウム真理教幹部、現「光の輪」代表、上祐史浩が出ていて、「麻原は今でも、強いパワーを持っている」と言って、出演者から、手ひどいバッシングを受けていたが、
 
コメンテーターだけでなく、だれでも、あんな悪党に、そんな神のような神秘的な力があってたまるか、と思うらしいが、
 
私は、逆に、「病気を治す」くらいの力は、だれだって身に着けることが出来る、と思っている。
 
 
だって、私のような半端な人間でさえ、サイ気療ができるようになっているんだもの。
 
 
自らを省みて、自分が、人間が出来ている、とは決して思っていないし、
 
事実、過去の私の行動だって、決して、ほめられたものではなかった、ということは自分が一番よく知っている。
 
 
上祐は、麻原が、ああいう反社会的な大犯罪を犯すに至ったのは、生まれてから成人になるまでの、彼の不幸な境遇によるものである、と言っていた。
 
つまり、彼の心の中の潜在意識の中には、大きなコンプレックスがあって、それが、ああいう大事件を引き起す原因となった、と言っている。
 
 
日蓮さんが「禅天魔」と言い、ヨガや禅が、「魔境に入る」と言って、戒めるていることは、人の心の中の、潜在意識が完全に整理される前に、サイ気療のような神秘的な力が発現すると、麻原のように、とんでもないことを引き起こす、ということを言おうとしたものだろう。
 
 
だから、昔も今も、私が、生涯を通して追い求めていることは、あくまでも、安心立命であり、わが身に、何が起きようとも、泰然自若とした強い心を、持つことにある。
 
 
そういう強い心を作る為だったら、私に教わらなくても、もう既に、(財)天風会という、伝統のある、強力な組織が存在する。
 
 
ただ、いつかも言ったように、今の天風会に関しては、私は、強い不満を持っている。
 
それは、主に、現在の天風会の指導者の中に、「気」がわかっている人がいない、ということなのだが、
 
たとえ、そういう不満は持っていたにしても、強い心を作る為の、基本的なことを勉強する為だったら、現在の天風会で十分である。
 
 
要は、天風会で、基本動作を教わり、教わったことを、どうやって日常の生活の中に取り込み、生かして行くかである。
 
教わったことを、実践しないことには、どんな立派な指導者に教えられようと、それは所詮、絵に描いた餅であり、何の価値もない。
 
 
と言っても、何年も何年も、続けて、天風会で教わる必要は、全く、ない。
 
今も言ったように、2~3年基本的なことを教わって、後は、そのことを、自分の生活の中で、ひたすら実践すればいいのである。
 
 
省みて、今日のような心境に至ったコツを聞かれるなら、それは、燃えるような求道だけだったように思う。

医者は、風邪すら治すことはできない

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慶応大学の近藤誠医師の書いた「医者に殺されない47の心得」を読むと、以前から私が主張していて、「今では、これぐらいは常識だろう」、と思っていることで、決して、そうではないことを、嫌と言うほど、思い知らされることも、多い。
 
つまり、「まだ、こんなこともわかっていないのか、みんな、バカだなあ!」と思うことが、しばしばある、ということである。
 
 
近藤誠医師は、「風邪薬も抗がん剤も、病気を治せない」と次のように言っている。
 
「医者は本当にあなたの病気を防いだり、治してくれているでしょうか。医師の僕が言うのもなんですが、答えはノーです。
風邪、頭痛、高血圧、高コレステロール血症(高脂血症)、不整脈、がん……。
病気の9割は、医者にかかったからといって治るわけでも、回復が早くなるわけでもありません。
そして、(薬の)副作用や後遺症のリスクはとても大きい。
たとえば、風邪のウイルスに作用して治せる風邪薬は、まだ発見されていません。
熱を下げる解熱剤やセキ止めなど、不快な症状を一時的に抑える「対症療法薬」も体はつかの間ラクになっても、回復は遅れます。発熱やセキなどの症状はすべて、体がウイルスを追い出そうと闘っているサイン。薬は体の治癒力を邪魔します。
インフルエンザをワクチンで防げるとか、リレンザなどの治療薬で治せるという医学的な根拠はなく、せいぜい「効果が期待されている」レベルです。
一方、風邪薬やインフルエンザワクチンの副作用で亡くなる人は、大勢います。」
 
こんなことは、今更、近藤医師に言われるまでもなく、50~60年も前に、天風先生は、こう言っています。
 
 
次は、宇野千代さんという女の作家が書いた「天風先生座談」(天風先生の講演録のようなもの)という本の中の引用です。
 
ご存じのように、天風先生も、アメリカのコロンビヤ大学の医学部を首席で卒業した医者なのですが、多くの医師がいる前で次のようなことを言っています。
 
「いえ、もっと身近な例を言えば、これほど進歩した医学を持っている人類に対して、進歩しているのはある一部分だけで、進歩しない方面は、昔も今もちっとも変わらない。
たとえば神経痛ひとつ、今の医者は治せないでしょう。喘息ひとつ治せないじゃありませんか。はなはだこれ、医学をけなしているようですが、私も医学を研究した人間ですから、率直に、医学の欠点に対して言っているわけです。
お集りのお医者の中で、俺は喘息治せる、という人があったら、手を上げてください。俺は神経痛たちどころに治せる、という人があったら、手を上げてください。遠慮なく手を上げてください。私はそういう人を探しているのです。風邪ひとつ、満足に治せる医者はいないじゃないですか。いや、この間、医者のかかったら治った。それはひとりでになおっちゃったんですよ。治らない風邪だったら、どんな医者にかかったって治りゃしない。(薬を飲んだから治ったのではなくて、たまたま、その時、自然治癒力によって、治る時期が来ていたから治った、という意味。)」
 
 
天風先生が亡くなられたのが、1968年12月1日、この講演が行われたのは、おそらく、亡くなられる前、4~5年のことだろう。
 
ということは、天風先生が亡くなれてからでさえ、45年は経つのだから、少なくても、こういうことを、天風先生は50年くらい以前には、言っていたということになる。
 
今でも、「神経痛や喘息をたちどころに治せる人手を上げなさい」と言われて、世界中のお医者さんを探しも、だれ一人手を上げる人はいないだろう。
 
 
自慢じゃないが、私は、
 
簡単な、神経痛や喘息、それに、風邪位なら、ものの、10分あれば治すことができる。
 
そして、この程度の病気なら、何も私が直接手を出す必要もない。電話による遠隔治療でも簡単に治る。
 
 
それでは、なぜ、私が、簡単に治せるのに、お医者が、治せないのか?
 
それは、近藤先生自身も含めて、現代医学は、全く、と言っていいほど、その原因がわかっていないからなんです。
 
つまり、原因がわからないから、治せないんだよ。
 
 
現代医学が、病気を治せない原因について、天風先生は、「天風先生座談」の中で、次のように言っている。
 
「人間の生命を(病気)を解決するには、肉体だけでは駄目だ。(医者は、人間の命は、肉体だけだと思っているから病気を治せないのだ)
心と肉体が打って一丸となったものが生命である以上、その見地に立って、われわれの生命の生き方と生かし方を研究しなければ駄目だ。というのが私の心身統一法を組み立てる思想の根本をなしているのです。」
 
なぜ、天風先生は、ここで「生命の生き方」と「生かし方」を研究しなければ、駄目だと、言うかというと、次のように言っていることから、その真意が、汲み取れます。
 
「生きているというこの現実の、生命のコンディションの中に、生かされている部面と、生きなければならない部面との二つがあることに気がついていますか。わかりやすい言葉で言えば生存と生活というものが打って一丸とされない限り、生命存在の現実を確保することは出来ないのです。」
 
「生活に対する方法ばかり考えて、どうすれば達者で生きられるだろう。食い物かしら、薬かしら。あるいは空気の良いところかしらと、つまり、肉体本位の、生活することばかりを、健康獲得への唯一の手段だと考えていたとは、なんと長年の間、無駄な努力を繰り返して来たことでしょう。肝心かなめの、生かされている方面に関しては、生かされているんだから、何も、改めて研究する必要はないと思っていた。」
 
 
多分、上の、この部分は、いくら読んでも、殆どの人は、理解できないのじゃないでしょうか。(「気」がわからないからわからない)
 
 
特に、「人間の命に生かされている部分がある」、つまり、生存、ということには、殆どの人が、理解不可能だろうと、思う。
 
天風先生が「人間の命は、生かされてる」、つまり、天風先生が「生存」と言っているのは、簡単に言えば、私たちは、「気」によって生かされているから、生きているという意味なのです。(望むと望まざるとにかかわらず、私たちは、「気」によって、生かされて、生きている)
 
 
「生活」と言っているのは、簡単に考えれば、これを、「肉体」と言い換えてもいいのですが、
 
「肉体」というのは、「気」によって生かされているから、肉体が生きている、という意味なんです。
 
貴方達も、医者も、みんな、「肉体」は、「気」によって生かされているから生きている、ということが、わからないから、
 
つまり、どうして肉体が生きているか、その原因がわからないから、肉体が病気になった時、どうしていいかわからないのだよ。
 
 
言い換えるなら、生かされているもの(結果)だけを考えて、それを生かしているもの(原因)が何かわからないから、病気を治せない、ということになる。
 
原因がわからなくて、結果が、出せるわけないじゃないか。
 
 
いいですか、どんなに偉そうな顔をしていたって、偉そうなのは顔だけで、
 
本当は、近藤先生も含めて、お医者さんというのは、どのお医者さんも、病気の、本当の原因はわかっていないのですよ。
 
普通の医者は、わかっているような、顔だけ偉そうにして誤魔化して、近藤先生は、私は、わからない、と正直に言っているだけなんだよ。
 
 
先に、天風先生が、「人間の命を解決するには、肉体だけでは駄目だ、心と肉体が打って一丸となったものが生命である以上、その見地に立って、われわれの生命の生き方と生かし方を研究しなければ駄目だ」と言っているのは、
 
私たちが生きていられる根本的原因である「気」というものは、心のあり方(持ち方)によって、命の中に入って来る分量が違ってくる、からそう言っているのです。
 
「気」が命の中に入って来る分量が多ければ、肉体は健康になり、その分量が少ないから、病気になる、という道理なのです。
 
 
「気」は、神経系統を流れて、私たちの命を保ってくれています。
 
そして、神経系統を流れる分量が少ない所に、病気が発生します。
 
流れる「気」の分量が、足りなくなった部分の神経は、炎症を起こして固くなります。
 
私のサイ気療は、炎症を起こして固くなった神経を探り当て、そこに「気」を注入することによって、炎症を止め、固くなった神経を柔らかくして、病気を治しているのです。
 
 
現代医学が治せない病気のことを、難病と言います。
 
私の知る限り、全て、と言っていいほど、難病の治療には、ステロイドという薬が用いられています。
 
ステロイドと言う薬は、神経の炎症を抑える薬です。(炎症を、一時的に抑えているだけ)
 
そうことから考えても、現在、難病と言われている病気は、神経が炎症を起こす、つまり、「気」の流れが悪くなる、ことが原因でなっている、ということがわかります。
 
 
風邪だって、気管支の神経が炎症を起こしてなる、病気である。
 
神経の炎症は、神経を流れる「気」が不足することによって起きる。
 
不足して起きる現象は、不足しているものを補ってやることのよってしか、治すことはできない。
 
 
これが、お医者さんが治すことができない風邪を、私が、サイ気療で、簡単に治せる、根本的原因である。

膀胱炎

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女性に多い病気らしいが、
 
インターネットで調べると、
 
膀胱炎に特徴的な、「ツーンとした沁みるような痛み」は「尿の貯蔵庫である膀胱が、細菌感染によって膀胱炎になり、膀胱の内側が敏感になる為に起こる痛み」とある。
 
話は、前後するが、膀胱炎の一般的な症状としては、頻尿、残尿感、そして、上で言っているような、排尿時の痛み等が、挙げられるが、
 
頻尿にしても、残尿感にしても、痛み同様、膀胱の内部が炎症を起こすことによって、起きている現象、と言うのだろう。
 
 
先日、膀胱炎のご婦人が、私の所に、治療にみえた。
 
訴える症状は、上と全く同じようなものだった。
 
いずれにしても、膀胱付近の神経が炎症を起こしていることには、間違いないと思うから、下腹部に手を当てると、果たせるかな、神経が炎症を起こしてパンパンに腫れているのがわかった。
 
 
手を当てる以外、他に、何をすることもないから、そのまま、そこに手を当て続けること、約1時間、その内、本人は、気持ちよさそうに、ウトウト始め、
 
そして、私は、指先に、炎症を起こして固くなったいた神経が、次第に柔らかくなるのを感じていた。
 
1時間の治療時間が来て、「どうですか?」と訊いたら、お腹をさすりながら「大分楽になりましたが、まだ少し、痛みが残っているような気がします」と言いながら帰って行った。
 
 
その後、どうなったか気にしていると、翌朝、「まだ、痛いし、頻尿が止まないので、治療して頂けないでしょうか?」と言って来た。
 
その時、「症状は、以前と変わらない」とも言った。
 
 
「治ってなかったのだ」と思い、少々、落胆もしたが、つらつら、治らなかった原因を考えてみた。(普通なら、一発で、良くなっている、はずである)
 
 
2回目来た時、この人の顔を見た途端、「この人、膀胱だけじゃなくて、全身の神経が腫れているんじゃないか」と思った。(だから、膀胱だけ触っても、治らなかったのだ)
 
背中から腰の部分を触ると、思った通り、パンパン腫れて、しかも、腰の部分は、熱まで帯びている。
 
私が、そう言うと、「実は、熱があって、体もだるいのです。」と言う。
 
 
背中と腰を触っていて、腫れが引いたように思ったので、今度は、お腹から下腹部を触ると、膀胱がある下腹部は勿論だが、胃や腸のある、お腹の部分までパンパンに腫れている。
 
そして、触っているうちに、胃や腸が、グルグル、音を立てながら、動き始めた。
 
 
ここまで来て、先日、1回目の治療で治らなかったわけがはっきりわかった。
 
要は、病気は膀胱炎というよりも、全身の神経が腫れていて、その全身の神経の腫れが、膀胱に影響を与えて、上のような、膀胱炎の症状を起こしていた。
 
これに、少し言葉を継ぎ足せば、膀胱の部分の神経の炎症が止まっただけでは、病気は治ることはなかった。
 
つまり、膀胱以外の、全身の神経の炎症が止まらなければ、膀胱炎は治らなかったのだ、と気が付いた。
 
 
事実、その日の(2回目の)治療が終わって、帰る時はすっかり元気になって、「先生ありがとうございました。殆ど痛みが無くなったように思います。それに、熱も下がったようで、体のだるさもなくなりました」と言いつつ、帰って行った。
 
 
さて、膀胱炎のことである。
 
ものの本を見れば、「膀胱炎というのは、細菌感染により、膀胱の内側の神経が炎症起こし、云々」と書いてある。
 
であるとするなら、膀胱炎というのは、細菌が無くならない限り、或いは、最近の繁殖が衰えない限り、病気が治ることはない、ということになる筈だが、
 
今回の事例のように、全身の神経の炎症が止まると同時に、膀胱炎の諸症状も無くなったということは、どう考えたらいいのだろうか?
 
 
考えられるのは、膀胱炎というのは、細菌が膀胱で異常に繁殖して、膀胱が炎症を起こすからではなくて、逆に、膀胱の神経が炎症を起こしたから、細菌が異常に繁殖した。
 
或いは、膀胱の神経の炎症と、細菌の繁殖には、全く、相関関係はない、ということなどが考えられる。
 
何故なら、くどいようだが、細菌が無くならなくても、全身の神経の炎症が止まったら、膀胱炎の諸症状も無くなった、という事実が、厳として、ここに存在するではないか。
 
 
他の病気の場合もそうだが、膀胱炎も、細菌と神経の炎症のとの関係から考えるより、「気」と神経の炎症との関係から考えた方が、私には、より、すっきりわかるような気がする。
 
 
だから、私は、今回の事例を、次のように考える。
 
心と気の関係により、「気」が全身に十分供給されなくなった為、神経が炎症を起こし、その為に膀胱炎になった。(細菌は無関係)

血圧降下剤ディオバン

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先日(7月29日)の読売新聞、13面記事下に、結構大きな広告が載っていた。
 
薬ではなく、サップリメントの宣伝だったが、次のようにあった。
 
「血糖値、成人に一人以上が注意が必要です。あなたは大丈夫?健康診断の結果を今すぐチェック」
 
薬ではなく、サプリメントだから、副作用の方は、特別、問題はないのだろうが、薬の宣伝も、大なり小なり、これと似たような、一種脅迫まがいのものが多い。
 
 
「脅迫まがい」と言ったのは、外でもない、
 
この記事を見て、「ひっとしたら、私も病気かも」などと、ある種の恐怖感を持ったのは私だけじゃないだろう、と思ったからである。
 
 
「成人の四人に一人以上が注意が必要」などと言われても、私たち素人には、反論できる有効なデータや医学知識など、全く、持ち合わせていない。
 
判断する資料を、全く持っていないのだから、この広告は、普通の人にとっては、一種の、脅迫のようなもの、と思うのである。
 
このサプリメントを飲んで、本当に病気が治るのだったら、脅迫という言葉は当たらないが、このサプリメントを飲んで本当に、血圧が下がるの?
 
 
話は全く変わるが、パチンコなど、必要以上に射幸心を煽るような、広告は禁止されていると聞く。
 
また、サラ金などの広告にしても、一種の規制が掛けられている、ようである。
 
 
同じように、専門家以外はわからないようなことを言う、脅迫まがいの広告は、どうして規制されないのだろうか。
 
 
このような広告や記事は、薬やサプリメントだけではない、時々、新聞で、医師会の広告や、お医者さん同士の、対談記事や、パネルディスカションなどでも見るが、
 
このような場合、どんな記事も、結論と言えば、「早期発見、早期治療」とか、「このような、病気の兆候が見えたら、直ぐに医者に相談しなさい」、となっている。
 
 
近藤医師の告発を待つまでもなく、果たして、早期発見・早期治療すれば、本当に、病気は治るの?
 
病気の兆候に気が付いた時、早めに、医師に相談すれば、本当に病気は治るの?
 
これらの医師の発言だって、本当に病気が治るのなら、サプリメントのそれと同様、脅迫とか、誇大広告という言葉は、当たらなくて、規制など必要ないのだが、……。
 
 
近藤先生は、「医者に殺されない47の心得」の中で、「高血圧や高コレステロール血症の基準値と呼ばれるものがある。これ以上になったら病気、と診断する数値です。
この基準値がまず、まったくあてにならない。病気ごとの専門学会が(基準値)を作っていますが、談合体質で、根拠もなく数値が決められています。特に高血圧の基準値の「操作」は目に余ります。」とあって、
 
「1998年の基準値が160(最高)~95(最低)だったものが、はっきりした理由もなく、2000年には、140~90に引き上げられ、さらには、2008年に始まったメタボ健診では、ついに130~80以上が治療目標になりました。」
 
「その結果、薬品業界はホクホクです。1988年の国内の降圧剤の売り上げはおよそ2千億円だったのが、2008年には1兆円を超えています」とある。
 
 
また、近藤先生は、本の中で、次のようにも言っています。
 
「基準値作成委員の多くが、製薬会社から巨額の寄付金を受け取っているのも問題です。たとえば2005年に作成された高血圧の基準も含む日本版メタボ診断基準の作成委員会メンバー。そのうち国公立大の医師11人全員に、2002~2004年の三年間に、高血圧などの治療薬メーカーから合計14億円もの寄付金が渡っています。」
 
 
ところで、最近、高血圧治療薬「ディオバン」の研究論文のデータがねつ造、改ざんされていた、などといって、新聞誌上を賑わしている。
 
データの、ねつ造、ねつ造、と言われても、
 
この新聞記事を、注意して読んだくらいでは、我々素人には、医師と、大学の研究室と、製薬会社の関係がどうなっているのかさえ、理解しがたいのだが、
 
近藤先生が、言っているようなことからすると、こういう事件も、どうやら、医者と製薬会社との癒着の中から、生まれているように見える。
 
 
今日も(8月1日)、読売新聞の1面、記事下広告に、「病院で殺される。よくぞ誤魔化し続けてくれました!長生きしたければ、(病院へは)行ってはいけない」(医療ジャーナリスト船瀬俊介著、三五出版)という本の広告が載っていた。
 
本を買って読んだわけではないから、内容は良く知らないが、少なくても、医療業界を告発する本であることには間違いなかろう。
 
 
このように、製薬会社も含めて、医療業界に対する国民の視線は、年々、厳しくなり、不信感は増している。
 
 
かつて、麻生副総理は、「医師は社会的常識が欠落している人が多い」と言って、政治問題化したが、本当のことを言ったから、政治問題になったのだろう。
 
 
お医者さんたちよ、「自分たちは、病気を治すことができる、専門知識をもった特別な人たち(エリート)だ」と考えず、
 
そして、もはや、自分たちが病気を治せるかのようなポーズや虚勢(嘘)など張らず、
 
近藤先生のように、「自分たち医者は、病気を治せない(お医者さんなら、だれでもそう思っているでしょう)」という、医療の原点に立ち戻って、自分たちの世界を立て直さないことには、
 
お医者さんや製薬会社に対する不信感は、いよいよ、大きくなる一方で、その内、国民の不満が、沸騰点に達して、大爆発を起こすのじゃないかなどと、心配する。

暗黒物質、暗黒エネルギー

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8月3日(金)読売新聞、夕刊、コラム「よみうり寸評」に次のような記事が載っていた。
 
 
「怪談のような話だが『宇宙は暗黒物質や暗黒エネルギーといった未知のものに支配されている』らしい。
宇宙に関する科学解説書でベストセラーの著書もある東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構の村山斉(ひとし)機構長が講演でそう話していた。
『暗黒』とは従来の技術では見えないこと。理屈上ではモノやエネルギーがあるはずだが、正体がわからない。
例えば宇宙は膨張している。しかも、最近の研究によれば膨張スピードは加速している。風船に息を吹き込んで膨らませる時と同じく多大なエネルギーが必要なはずだが、そのエネルギーが、どこから来るのか(わからない)」
 
暗黒物質とか、暗黒エネルギーとかいう時の「暗黒」とは、従来の技術では見えないもののことを言うらしい。
 
従来の技術と言っているのは、要は、我々の五感で感じられないから、そう言っているのだろう。
 
宇宙が膨張しているのは、科学的に立証されていて、宇宙を膨張させるには、膨大なエネルギーを必要とするはずだが、そのエネルギーがどこから来ているのかわからない、ということを言っているのである。
 
 
ここでは、エネルギーのことしか言ってないが、暗黒物質というのは、物質ができるには、その物質ができる元となる材料が存在するはずだが、それが、何であり、どこにあるかわからない、という話なのだろう。
 
 
コラムニスト氏は、「宇宙は未知のものに支配されているらしい」ことを、怪談のようだと、言っているが、
 
私に言わせれば、怪談でも不思議でも、何でも、ありゃしない。
 
 
「気」のことを、暗黒物質とか、暗黒エネルギーとか言っているだけなんだよ。
 
その事を、ここで、私が、説明するより、中村天風先生に、お願いした方がよさそうである。
 
その方が、少なくても、私よりも、わかりやすい。
 
 
天風先生は、「運命を拓く」という本の中で次のように言っている。
 
「この世のすべてのものというものは、動物、植物、鉱物の三つに分けられるが、これらはすべて一つのものから生み出されている。すなわち万物創造の根源であり、絶大な力を持つ霊妙な『気』がこの一切を作る根拠をなしているのである。その気が作ったもの一切を包んでいる。というよりもむしろ、その気の中に作られたもの(動物、植物、鉱物)が存在している、と言う方がよいであろう。全てのものが、この霊妙な気の中に終始いかなるときでも存在しているのである。
ちょうど、水の中に住む魚のように、水がなければ魚は生きていけないが、魚自身は水の中にいることを忘れているであろう。人間も、この霊妙な気の持つ力の中にいるからこそ生きてられるのである。
(人間は)空気の中にいるから生きているのではない。万物創造の霊妙な働きをなす気が空気を作り、この気の中に空気が作られているのである。そして空気の中にある酸素、窒素などが我々の肉体生命の新陳代謝を行うために命の火を燃やしているのである。空気の中に気があるのではない。作られたもの作ったものではないことを忘れてはいけない。」
 
そして、又、別の項で、次のようにも言っている。
 
「さきほど、形のある宇宙が出来る前に、すでに、形のない宇宙があった、と言ったが、形のない宇宙とは何か、まず、科学的に考えてみよう。この宇宙の中に、我々が感覚できる色々な森羅万象がある。この森羅万象も一番初めはいったい何から出来たんだろう、ということを、突き詰めて考えてみよう。
一番根本は何か、というと、ただ一つの実在から産み出されたものである。その実在とは何であろう。哲学では、根本的本源実在、と呼び、科学ではこれを極微粒子的なものとして、エーテルと名づけている。哲学の方では、人間の感覚では、捉えることのできない、茫漠たる見えざる、一つの『気』であると言っている。
(途中略)
いずれにしても、このただ一つのエネルギーを生み出す元が、宇宙を創り出したのである。
とにかく、一番いけないのは、我々の五感が感覚しないものは、存在しない、と思うことである。」
 
 
さて、ここで、先ほどのコラム「よみうり寸評」に帰る。
 
コラム氏は、東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構の村山斉(ひとし)機構長の話として、この一文を次のように結んでいる。
 
「ナゾ解明のため国立天文台や村山さんたちが詳細な宇宙地図作りを進めている。それに使う新型の望遠鏡用カメラも開発した。
全長3メートル重さ3トンの巨大デジタルカメラ。米ハワイ島の『すばる望遠鏡』に設置されている。初撮影の成果として今週、アンドロメダ銀河の画像が公開された。
1回の撮影で銀河全体が写った。拡大すれば星々もくっきり見える。宇宙の怪談は、さて解けるか。」と。
 
「宇宙の怪談は、さて、解けるか」と言っているが。
 
解けるもんか。絶対に解けることはない。未来永劫にわたって、この方法で、宇宙の謎が解けることはない。
 
なぜなら、この宇宙そのものが、私たちの五感に感じることのできない、極微粒子を元にして(原料にして)できているのに、望遠鏡という物質だけしか見えないものを使って、宇宙と言う物質(宇宙)だけを見て、その物質を作った元を見ようというのだから、土台、無理な話というものである。
 
 
宇宙の森羅万象を作った元を、わかる方法が一つだけある。
 
それは、瞑想をして、「本当の自分」とは、何かということを知ることである。
 
瞑想によって、「本当の自分」とは、心でもなく、肉体でもなく霊魂と呼ばれる『気』であるということがわかることによってしか、
 
宇宙を作っている元もまた、「気」であるということを、知ることはできない。

パフォーマンス

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先日、インターネットニュースで、掛布氏が、阪神ドラゴンズの決めポーズに、「喝」を出していたことを知った。
 
その記事には、日刊スポーツ8月4日配信、とも書いてあった。
 
「(掛布氏が)4日朝、TBS系テレビ『サンデーモーニング』の張本勲氏のスポーツコーナーにゲスト出演、阪神のОBとして古巣に『喝』を二つ出した。
1つ目は、3日、巨人杉内とのエース対決に敗れた能見投手に対して、そして2つ目が、阪神打者が本塁打を打った時に、ナインがスタンドに向かって行う、決めポーズだった。『プライドをかけて戦っている相手に対して尊敬の念が感じられない。ダメとは言わないが、やる場面を考えてほしい。(あれは)相手を挑発する行為。米国だったら報復(死球等)されますよ。OBとして考えて頂きたい』と説明していた。」
 
 
私も、あの場面、テレビで見ていて、その時は、特別、何とも思わなかったが、
 
掛布さんが言っているのは、私のような観客のことじゃなくて、実際戦っている巨人の選手が、不愉快に思ったのではないか、と言っているのである。
 
事実、その日戦った、巨人の杉内投手も、試合後、それらしいことを言っていたらしいから、アメリカなどでは、死球などの、報復を受けやすい行為なのだろう。
 
 
私は巨人ファンだが、阪神との試合の時、選手のパフォーマンスに、時々、違和感を感じることも多かった。
 
実際に見たのは、かなり以前のことだが、(おそらく、この人、今でも同じことを繰り返しているんじゃないか、と思う。)
 
仮に、A選手と言っておこう。
 
 
ホームランを打った後、バットを2~3メートルも上に放り上げてから、一塁に走り出すのである。
 
ホームランを打った時のバットは、上に放り上げなきゃ、下にそっと置けないくらい重いものだったら、そうするのもいいが、そうでもなそうである。
 
そして、何も、ホームランくらいで、あんなに大袈裟にしなくても、などと思ったりしたものである。
 
 
掛布さんは、こういった選手個人の行為にも、同じように、「喝」を出すのだろうか。
 
 
中村天風先生は、このようなパフォーマンスに対して、次のように言って、「喝」を出している。
 
天風先生は「真理のひびき」という本の中で、「人生に最も注意すべきことは、得意の時に一しお、心の備えを緩めぬよう心がけることである。」と言っている。
 
 
なぜそうでなければならないのか、その理由は次の通り。
 
「これをわかりやすくいえば、『大定心(だいじょうしん)』というのは、どんなとき、どんなことにもいささかも動揺せぬ心、いいかえると、いかなる場合にも、怯じず、怖れず、急がず、焦らず、いつも淡々として極めて落ち着いて心である。これをもっと適切な言葉で言えば『何事もない時の心と同様の心』である」
 
大定心とは、いわば、悟った人の心の状態をいうのだろう。
 
だから、こういう人は、「明日、お前死ぬよ!」と言われても、怯じず、怖れず、いつもの通り、淡々とした気持ちでいられるのだろう。
 
 
だから、こういう心になるには、日頃から、小さな出来事に一喜一憂してはならないと、天風先生は戒めているのである。
 
特に、得意の時は、一層心が緩みがちだ、と言っているのだろう。
 
 
剣道では、これを、「残心」という言葉で、教えている。
 
天風先生は、残心とは、「闘う前の心構えと、闘っている最中の心構えと、闘い終わったときの心構えに、いささかの差別があってはならない」、と言っている。
 
 
ヨーガという言葉は、元々、「馬に頚木(くびき)をかける」ということから来ているらしい。
 
何のために、馬に、頚木をかけるのか、というと、馬の動きを制御して、御者が思うところに馬を走らせる為に、そうするのである。
 
 
心を、馬と思ったらいい。
 
心も、馬同様、元々、放って置いたら、どこに走り出すかわからない。
 
 
ヨーガでは(禅も同じ)は、ほったらかして置いたら、暴れ回って、どこに動いていくかわからない心を、自分の思い通りに動かすために、修業をするのである。
 
だから、ヨガの根本経典と言われるヨーガスートラには、冒頭で、「ヨーガとは、心を止滅させることである」と書いてあるのである。
 
止滅とは、勝手に、動かないようにする、という意味である。
 
 
私もそうだったから、人のことを言えた義理ではないが、
 
貴方達の中にも、まだ、自分の心の動きに従って、つまり、喜怒哀楽に従って、生きるのが、素直で正しい生き方だと、思っている人がいやしませんか?
 
天風先生や、ヨーガが教える通り、心のままに生きたら、ますます、動揺しやすくなり、ちょっとした出来事にも、慌てたり、焦ったりするようになるものなんですよ。
 
 
掛布さんが、そういうことまで知っていて、タイガースのパフォーマンスに、ダメを出したのかどうかまでは知らないが、
 
彼も、日頃、身辺に起こる出来事に、簡単に、心を動かさないように心掛けていると、野球で、ピンチやチャンスに出会った時、あがったり、焦ったりしないで平常心で対応することができるようになる、ということぐらいは知っていたのかもしれない。
 
 
それにしても、心というものは、特に、得意の時、激しく、大きく、動くもののようである。

これを食べれば医者はいらない、のウソ

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健康に生きるためには、食事が大切なことはわかるが、だからと言って、食事さえ、つまり、食べ物にさえ気を付ければ、健康で長生きできるように言うのは、大間違いである。
 
この本、つまり、「これを食べれば医者はいらない」(若杉友子著、祥伝社刊)という本も、その名前から察する限り、食べ物にさえ気を付けていれば、病気にもならず、健康で長生きできるかのような、印象を受けるのは、残念と言うほかない。
 
 
先日、読売新聞(8月4日)の記事下に、に、「こうして作れば医者はいらない」という本が、「これを食べれば……」に続いて、出版された云々という、本の広告が載っていた。
 
こういうことを、さも、唯一、正しいことのように言うのは、間違っていると思うから、敢えて買って読む気にもならないから、中身は読んでないが、
 
広告中の「結局、何を食べればいいの?という素朴な疑問にお答えします」などと言った、キャッチフレーズなどからして、私の思っていることも、あながち、的外れではなさそうである。
 
 
さて、私たちは普通、胃や腸など、五臓六腑が働いて、食い物を血液に変え、その血液が、体の隅々(の細胞)まで、栄養(エネルギー)を運ぶから、生きていられる、と思っている。
 
しかし、胃や腸など、その他の臓器にしても、自分で動く力は持ってない。
 
つまり、自律神経に操られる、操り人形のようにして、私たちの五臓六腑は動いているに過ぎない。
 
五臓六腑に限らず、それが動くためには、何らかのエネルギーを必要とすることは、物理のイロハだろ。
 
 
結論を先にすれば、自律神経を流れる、「気」と言うエネルギーによって、私たちの五臓六腑は動いてるんだよ。
 
 
これを例えれば、工場で製品を製造する機械と、その機械を動かしている電気の関係に等しい。
 
工場の機械も、電気が通らなかったり、通っていたにしても、流れる電圧が低ければ、その動きは鈍くなり、出てくる製品もまともな物は出来ないでしょ。
 
この場合、五臓六腑が機械で、電気に相当するものが、「気」であることは論を待たない。
 
 
自律神経の動きは、心の状態に左右される、ということは、誰でも知っている一般常識だ。
 
だから、自律神経失調症なんて病気は、心の働きが弱まって、起きる病気なんだよ。
 
 
そして「気」を人間の命の中に取り込む分量は、心の強弱によって決まる。
 
当然、「気」が豊富に十分取り入れられていれば、健康で運命もよくなり、逆の場合は、病気にもなり、不幸にも出会うということになる。
 
 
だから、若杉さんが言うように、どんなに体に良さようなものを食っても、それを血液に変える五臓六腑が、まともに動かなかったら、健康になれる筈がないじゃないですか。
 
 
間違っているのは、若杉さんばかりではない、医者だって、「気」が病気を治していることを知らないから、病気を治せないんだよ。
 
「気」が病気を治していることは、私がやっているサイ気療をみれば、わかるだろ。
 
 
「わからない」と言う人は、自ら、私のサイ気療を体験してみれば、直ぐに、わかることじゃないか。
 
以前から、自分の言っていることが、正しいことを証明する為なら、私は、どこへでも出かけて行きます、と言っているのに、未だに、医者を初めとして、誰からも、どこからも、何も言ってこない。
 
サイ気療なんて、自分の体を通じて、経験してみなきゃ、けっして、わかるもんじゃないよ。
 
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(仕事が忙しいので、電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
遠隔を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、遠隔治療は、希望者が多いため、キャンセル待ちの状態です。
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