Quantcast
Channel: 気と心と宇宙法則
Viewing all 274 articles
Browse latest View live

禅、捨てる生き方

$
0
0
このタイトルは、実は、「捨てる生き方」という本の名前から、取ったものである。
 
本の紹介ではないし、ましてや批判でもないから、著者や、出版社の名前は、この際、敢えて言わないこととする。
 
 
先日の新聞の記事下広告で知ったのだが、
 
本のキャッチとして、次のようにあったから、大体、これが本の要旨と言うか、目的なのだと思う。
 
 
「心の荷物を手放せば、もっと穏やかに生きられる」
 
「この世に生を受けてから、ずっと生きる術や知識を積み重ね、『もっと、もっと』と生きてきた結果、疲れはててしまった私たちに、禅は教えてくれます。『もっと、もっと』という『執着の心』を捨てることで本当の自分を取り戻せると。」
 
確かに、私たち現代人は、心の大切なことを忘れ、「もっと、もっと、」と物質を追い掛け回した結果、疲れはててしまっている。
 
 
その「もっと、もっと」という心、つまり欲望を捨てれば、確かに、心の疲れは回復するのだが、 
 
と言ったところで、欲望や執着心というものは、簡単に、捨てることができるものだろうか?
 
言い古された言い方だが、「欲を捨てたい」と思うのも、欲望じゃないか。
 
 
坊さんは、「欲を捨てたい」為に、つまり、欲を捨てたい、という欲望を達成するために、世間を捨て、頭を剃って山の中に入るのだろ。
 
第一、欲がなかったら、「欲を捨てたい」という欲望もなくなってしまうじゃないか。
 
 
言われる通り、欲を捨てなければ、本当の自分というものは、取り戻せないのか、ということも大いに疑問である。
 
 
この本のキャッチには「心の荷物を手放せば、もっと穏やかに生きられる」とあったが、
 
言っているように、「心の荷物、」つまり、欲望を手放さなかったら、私たちは、本当に穏やかな生き方は出来ないのか、ということである。
 
 
そしてまた、この本は臨済宗の坊さんの書いた本なのだが、この坊さんが、禅寺に入門して、心が穏やかになって、本当の自分を取り戻すことが出来たにしても、
 
世間の人の殆どは、街中に住み、結婚して、子供を育て、会社に行って生計を立てている人たちばかりである。
 
この坊さんのように、親を捨て、子を捨て、人里離れた、山中の寺に入らなければ、欲望は捨てられないものだ、とすれば、
 
私たちのように、街中に住む、殆どの人は、欲望を捨てることは、できない、ということになりはしないだろうか。
 
 
きつい言い方だが、出来もしないことを言われても、何の価値もない、ということになりはしないだろうか。(普通の生活をしている人にとっては)
 
 
人間は決して欲望を捨て去ることはできない。
 
つまり、欲望を捨てて、心の荷物を下ろすことは、決して、できない。
 
 
それに、坊さん方のように、特別なトレーニングを積まなければできないような、つまり、普通の生活をしていてはできないようなことを言われても、現実には、何の価値もないと言わざるを得ない。
 
 
その点、天風さんの心身統一法の教えは、ありがたいね。
 
第一、無理に、「捨てよう、捨てよう」なんて、無駄な努力なんかする必要ないもの。
 
 
しかも、誰にでも出来て、普通の生活をしながら、教えを日常の生活の中に溶け込ませ、日々、実践怠りなければ、いつかは、自然に、心が穏やかになる方法だもの。
 
私たちは、禅の坊さんのように、厳しい修業を積んで、無理に、悟りなんか開かなくてもいいんだよ。
 
 
毎日を、心穏やかに、過ごせれば、それで十分だよ。
 
それくらいのことだったら、今の自分でも、出来てそうな、そんな気がするから、そう言うんだよ。

卒業

$
0
0
昨日、遠隔治療を受けている患者から、「8月一杯で卒業させて下さい」というメールを頂いた。
 
アトピーが、ほぼ完治しかけている、ということである。
 
 
この人のアトピーが、どんなものだったかについては、2013年4月27の私のブログ、「ひどいアトピー」に載っているので、そちらを見て頂きたい。
 
 
初めて、東京から私の所に見えたのは、2年ほど前だったと記憶している。
 
2年ほど前に来て、2~3日、直接のサイ気療を受けた後、東京に帰って、自宅で、週3回、電話での遠隔治療を受け始めたのだった。
 
 
その後、調子がよくなったから、週1回にしてほしい、と言ってきたのが、今年の4月だ。
 
その時、始めてから2年近く経っていた。
 
嬉しくて書いたのが、先ほどの「ひどいアトピー」という名前のブログである。
 
 
この人のように、治りそうもないと思われた病気が、簡単に治る一方、
 
反対に、末期がんの人など、治療中に亡くなる人も、結構いるから、どんな病気でも、どんな症状でも、一様に、電話で、簡単に、というわけではなさそうである。
 
 
それにしても、特に、糖尿病とか腎臓病などの病気は、電話で、極めて簡単に治る。
 
なぜ、かくも簡単に、遠隔治療だけで、病気が治るか、自分にも、よくわからない。
 
 
病気の程度によるものなのか、病気の種類によるものなのか、或いは、本人の持っている、自然治癒力の程度によるものなのか、私にも、よくわからない。
 
わからないけれど、ただ一つ、言えることは、簡単に治る人は、なべて、素直で、明るくて、前向きの人が多い、ということである。
 
 
病気が治って、嬉しくない筈はないが、2年近くも、お付き合いしてきて、もう来月から声も聞こえないのか、と思うと、一抹の寂ししさも禁じ得ない。
 
それが何であれ、それが、卒業というものなのだろう。

終戦記念日に

$
0
0
今日は8月15日、先の大東亜戦争が終わった日である。
 
この日、テレビなどでは、様々な戦争体験が、語られる。
 
その大半が、判で押したように、平和の尊さを叫びつつ、
 
自らのみならず、家族親戚縁者が蒙った精神的・物質的な被害を、二度と繰り返してはならない、と涙ながらに訴える。
 
 
実は、私は、このように、テレビの中で、毎年繰り返される、年寄りの愚痴話のような話を、目をそむけ、耳を塞ぎたくなるような思いで見ている。
 
 
戦争が終わって68年、今日の読売新聞の社説を借りて言うと、「戦後、日本は昭和の戦争の反省に立って再出発し、平和裏に高度経済成長を達成した」。
 
つまり、戦争には負けたけれど、その後、その事を糧にして(バネにして)、努力して、今日の、平和と、経済的繁栄を達成することができた、という意味である。
 
 
私がなぜ、毎年のように繰り返される、悲惨な戦争体験を、見たくない、聞きたくない、と言うのか、というと、
 
戦争が終わって数十年、当時の不幸な出来事を、いまだに引きずるようにして生きてきた、つまり、テレビの中で見るような、あの戦争の語り部のような人たちによっては、今日の、我が国の平和と繁栄は、決して、作られなかった、と信ずるがためである。
 
 
中村天風先生は、終戦直後(戦争が終わったのは昭和20年8月)、既に、「真人生の探求」(この本は、昭和22年3月に、初刊が出版されている)という本の中で、次のように言っている。
 
「私は現在の日本を考え、単に不幸だと愚痴る人には、決して理想的の民主国家としての真日本の建設など到底覚束(おぼつか)ないと思う。
むしろ現下のお互い日本人は、現在のすべてを、真日本の建設という一大事実を現実化するために、天が我が日本人に慈愛を以て与えられた一大試練だと断定するならば、期せずして一切の事物現象が自己を磨き上げ、また自己をより高く積極的に啓発する題材となり、やがてその結果は、世界平和に協調し得る国家社会を作り上げることができると思う時、価値のない不平や愚痴は影を潜め、これにかわるに、限りない感謝念の湧然たるのを意識するであろう。」
 
 
天風先生の心身統一法の哲学を、一言で言うなら、「心は、常に、積極的に」と言うことであろう。
 
積極的な心とは、かの熊沢蕃山が言うところの「憂きことのなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」と言うことである。
 
病気になろうが、不幸に会おうが、それを自己を磨き上げる為の、神が与えた試練だと思えば、不幸も不幸でなく、病気も病気でなく、「ありがたい」という感謝の念が湧いてくるだろう。
 
 
覚えているだろうか、天風先生が、「運命を拓く」という本の中で次のように言っていることを。
 
「だから、よく言うことであるが、三年四年経った人が私にお礼をいう時この人は、本当に私の言うことを聞いていたな、と私が思うようなお礼を言う人は、まあ十人一人いるかいないかである。たいていの人は、『ありがとうございます。何も知らずに生きておりましたが、ご縁がありまして、先生の弟子になって、いろいろ尊いことを教えていただいたお蔭で、この頃は、弱かった体も、すっかり丈夫になりまして、そうして、家中が皆丈夫になり、商売も繁盛いたしまして、もう何という恵まれた幸せかと思って、本当に、明けても暮れても、先生に手を合わせて拝んでいるような始末でございます。ありがとうございました。』と言う。
こういうお礼を言われると私は、『この人は一体、どんな聞き方をしていたのだろう』と思う。
(途中略)
(反対に)『ああ、よくわかってくれたねえ、ありがとう』と私が言うのは、『この頃はもう、先生のお話を聞いてから、どんなに苦しいことがあっても、憂いことがあっても、それに負けなくなりました。そりゃ、まあ時には病の出ることもあります。けれども、今までとは違います。病があれば、ああ、ありがたいなあ、自分の生き方が悪かったから、神がそれを教える為に与えてくださったお慈悲だと、いつも先生がおっしゃっていらっしゃいましたが、私もそう思うようになりました。心が全然昔と違ってきまして、この頃では、憂いこと苦しいこと、こっちから引き受けてする気が出てきているんです。ありがとうございます。』とこう言われると、その人を抱きしめたいような気持になる。それが本当の目的だからである。」
 
 
心を常に積極的に保つ為には、心を、消極的から積極的に、切り替えができるようにできるようにならなければならない。
 
だから、積極的ということと、心の切り替えができる、ということとは、同じ意味と考えてもよい。
 
 
いま、私から、そう言われて、そう思いたくてもできない、切り替えたくても、簡単に切り替えられない、と思っている人は、
 
まだ、心の中に、「信念」というものが、出て来てないからなんですよ。
 
つまり、天風先生が、「この人は一体、どんな聞き方をしていたのだろう。」と思うような人は、信念がないために、心の切り替えができない人のことを、そう言っているんですよ。
 
だから信念が出てくれば、簡単に心を消極的から積極的な心に切り替えができるようになります。
 
 
その為に、天風先生は、心身統一法の中で、観念要素の更改法とか、積極精神の集中力養成法とか、神経反射の調節法とか言って教えてくれているでしょう。
 
あれは、信念を渙発して、心を、消極的から積極的に切り替えることが、簡単にできるようになるために、あるんでしょう。
 
 
天風先生が、お礼を言われた時、「この人、一体、どんな聞き方をしていたのだろう」と首をかしげたくなる人、信念が出てなくて、心を切り替えることができないから、そう言うのでしょ。
 
信念が出てない人というのは、また、天風先生の教える、観念要素の更改法とか、積極精神の集中力養成法とか、神経反射の統一法とかを、まじめにやっていない人、ということでもある。
 
 
先の大戦(敗戦)のことを、ただ、不幸なこととして、愚痴ってばかりいるような人は、心が、周囲の環境に負けているから、つまり、自分が置かれた状況を乗り越えることができないでいるから、愚痴ばかり言っているのでしょう。
 
心が、負けていたら、病気や不幸など、周囲の環境を乗り越えることが、できるわけないじゃないですか。
 
これは、理屈じゃないですよ。
 
心が、折れたり、落ち込んだりしていては、何事も、解決できないことは、日頃の経験からして、直ぐにわかることでしょ。
 
 
約二年前、わが国では、大東亜戦争の敗戦に次ぐ、大きな事件が、東北地方で起きた。
 
東日本大震災のことである。
 
あの事件を「風化させてはいけない」とか、「語り継ぐ」とか言って、いまだに、「不幸だ、不幸だ」と愚痴ってばかりいては、決して、東北地方の再興はできない、と思う。
 
現在進行中の東北の復興も、一日も早く、あの事件を忘れ、「神様が、与えてくれた試練だ、よし頑張るぞ!」と思った人達だけの手によって、起こりつつある、と思う。
 
 
過去の辛いことや悲しいことは、一日も早く忘れることだよ。
 
不幸な出来事や失敗を、思いだし、考えだし、毎日、毎日、その事にこだわり続けていては、復興の為の勇気や意欲は、どこからも、湧いて出てこないよ。

医者に命を預けるな

$
0
0
新聞で、「医者に命を預けるな」(中村仁一著、PHP文庫刊)という本が、文庫本になって出版された、という広告を見て、
 
めったに本など買わない私が、この度、珍しく、本を買って読む気になった。
 
 
本の表題に興味を持ったということもあるが、文庫本になって、手に入れやすくなった(533円)ということも、買う気になった動機の一つかもしれない。
 
 
慶応大学病院の近藤誠医師も、同じようなことを言っているが、近藤先生には悪いが、人間的には、こちらの先生の方が、ずっと立派な人との好印象をもった。
 
近藤先生のことをあげつらうつもりはないが、中村仁一という人が、彼に比べて、ずっと立派な人、と思ったのは、冒頭、「はじめに」の中の、次の一節を見た時だった、
 
いわく、
 
「ふつう、医師は医学の、それも病気の勉強しかしていません。だから、必ずしも豊富な人生体験をもっているとは限らず、また、人生修業を格別してきたわけでもありません。したがって、プロとして、技術的な面では全幅の信頼を寄せられても、精神面においても当てにしていいとは限らないのです。」
 
だから、本のタイトルも、「医者に命を預けるな」としたのだろう。
 
 
医者は、病気のことは、何でも知っているように、ことに、人間の命については、何でも知っているかのように思い込んでいる人が多いが、
 
私に言わせれば、彼らは、肉体と言うことだけを、知っている専門バカ、と言った方がいい、と思う。
 
だから、このことを、中村先生は、「必ずしも豊富な人生経験をもっている」わけでもなく、また、「特別な人生修業を積んできた」わけでもない、と言うのだろう。
 
このことによって、すなわち、中村先生は、人間の命は、つまり、病気とか健康とかは、肉体だけを、勉強しただけでは、本当のことは、わからない、と言わんとしているのだろう。
 
 
医師というのは、大学で、何年間か、特に、肉体に関する、専門教育を受けただけであって、それは、弁護士や裁判官が、大学で法律の勉強をしたり、或いは、科学者が、専門の技術教育を受けたということと、なんら変わりはない。
 
貴方達は、弁護士や裁判官や或いは、特殊の技術者達が、難しい専門勉強して来た、というそれだけで、その人を尊敬したり、ひいては、命まで預ける気になりますか?
 
医者という職業の人たちも、せいぜい、裁判官や、弁護士や、その他の技術者達と、世間のことを知らない、つまり、人間の命というものについて知らないことにおいては、同程度と考えてよい。
 
 
ということは、病気とか、健康とか、それらを含めた人の命というものは、大学で専門の勉強をして、少し医療の現場に身を置いたくらいでは、とても、わかるもんじゃないということである。
 
と言うよりも、中村仁一先生(現在73歳)のように、現場で、医者として経験を積めば積むほど、自分たちは、病気を治すことはできない、ということが、益々、わかるようになる。
 
そのことを、中村仁一先生は、「ふつう、医師は医学の、それも病気の勉強しかしていません。だから、必ずしも豊富な人生体験をもっているとは限らず、また、人生修業を格別してきたわけでもありません。」というという言葉で、そのことを表しているようだ。
 
 
医者のみならず、人間の命というものはわからない、と思うから、禅坊主などは、座禅を組んだり、難行苦行をしたりして、そのことをわかろうと努力するんだろ。
 
だが、坊主やヨガの行者のように、難しい、専門の修業を何十年積んでも、それでも、人間の命というものが、わかる人は少ない。
 
ましてや、大学を卒業して、何年かのインターンを経験しただけ駆け出しの医者なんかに、人間の命がわかる筈がないじゃないか。
 
命というものがわかってないから、神経痛一つ、風邪ひとつ、医者は治せないのだろう。
 
 
中村仁一先生は、仏教徒だということだし、本の中でも、盛んに「(病気は)放っておいても治るものは治る、(医者が)いくら手を尽くしても治らないものは治らない」と言っていることからして、(正に、その通りである)
 
曲がりなりにも、人間の命というものは、科学ではうかがい知れない何者かによって、生かされ、動かされている、ということに、うすうす、気が付いているようである。
 
が、いかにせん、「じゃ、命を生かしているのは何ですか?」と問われれば、きっと、彼は、返事に窮することだろう。
 
 
彼は、肉体をいかしているものが、外に何かあるということに、気がついてはいるようだが、
 
「気」というものを、身をもって、経験してないから、「気」が人間の命を生かし、人の運命を左右していることがわからない。
 
 
今、手元に、妙心寺という禅寺の管長や、花園大学の学長を務めたことのある故山田無文という人の「自己を見つめる……本当の自分とは何か」という一冊の本がある。
 
また、ソクラテスは、「汝自身を知れ」と言ったという。
 
 
「本当の自分とは何か?」は、座禅や、瞑想をして、「自己を見つめる」ことなしには、わからない。
 
肉体は本当の自分じゃないんだよ。
 
医者も含めて、あなたちも皆、本当の自分が肉体だと思っているから、自分の病気一つ治せないんだよ。
 
 
座禅や瞑想をして、「本当の自分」は、目に見えない「気」であるということがわかって初めて、自分を生かしている命の元も、「気」という目に見えない気体である、ということがわかるようなる。
 
自分の命を生かしているものが、「気」であるということがわかって初めて、医者も含めて、誰しも、自分の病気を治し、自分の運命の主となることができるようになる。

征韓論

$
0
0
今、夏休みを利用して、司馬遼太郎の「翔が如く」(文春文庫全十巻)を改めて、読み返している。
 
敢えて、「荒っぽい」言い方をすれば、この本は、征韓論に始まり、西南戦争で終わる、歴史小説と言っていい。
 
 
その為なのだろう、この本の中には、征韓論の背景となった、当時の韓国の、我が国に対する態度、そして、これに対する我が国の国民感情が、繰り返し、述べられている。
 
 
例えば、次の通りである。
 
「この時期、日本の朝野を問わず征韓論で沸騰しており、西郷はその渦中にいた。
というより、西郷がこの渦を巻き起こした張本人のように見られており、事実西郷という存在がこの政論の主座にいなければ、これほどの騒ぎにはならなかったにちがいない。
といっても西郷の心境は複雑で、かれは扇動者というより、逆に桐野ら近衛将校たちが『朝鮮征すべし』と沸騰しているのに対し、『噴火山上に昼寝をしているような心境』と、西郷自身が、この時期の心境を書いているように、自分の昼寝によってかろうじて壮士的軍人の暴走をおさえているつもりであった。」
 
「貴国も(韓国)開国せよ。と、(日本は)余計な忠告を朝鮮へ(使者を)送りつけてきたのである。朝鮮は日本の使者を犬猫同然にあつかい、そのつどがずかしめ、そのつど追い返した」
 
「すでに朝鮮は再三にわたる日本の開国のさそいに対し、言辞まことに無礼で、ことごとく蹴り、日本の使者を王都にすら寄せ付けなかった。」
 
「副島種臣は西郷よりも早くから征韓論者であった。かれは侵略主義者ではなかったが、国体の体面をきびしいほどに重んずる人物で、韓国のように、一個の独立国が他の独立国に対して、馬喰が悪態をつくようなおよそ批評するのもばかばかしいほどの態度をとったということを、そのまま放置しておいては、かえって永い善隣のよしみを失うという考えであった。このために西郷の渡韓ということについてはもろ手をあげて賛成したのである。」
 
「『朝鮮の無礼暴慢、なるほど重要である』岩倉はすでに議長でなく発言者であった。岩倉は、そもそも朝鮮は、と説き、かの国は清国を宗主国とし、その後ろ盾の大を恃むがゆえに日本に対して驕慢(おごり高ぶって、人を見下し、勝手なことをすること)である。いまもし韓都にむけ、日本から大使を派遣せんか、おそらく大使は殺されるであろう、結局は戦になる、という。」
 
 
読み進むうちに、この本にあるような、韓国の、我が国に対する非礼・傲慢な態度は、当時も今も少しも変っていない、などと、妙に感心しながら読んでしまった。
 
 
つまり、今日の従軍慰安婦問題、竹島領有権問題、ひいては、歴史認識問題など、テレビを通じて見る、韓国の、我が国に対する態度は、かつて、司馬遼太郎が、「馬喰が悪態をつくような」と言っているようなのと、少しも、変わりはない。
 
昔も今も、変わらない、ということからすれば、かの国の国民性とも思われるが、
 
それにしても、あの憎悪ともつかない、激しい感情表現からして、
 
「痩せ犬の遠吠え」、つまり、小さなスピッツが、巨大なシェパードや秋田犬を見て、恐怖のあまり、遠くから、激しく、吠えかかっているような感がしないでもない。
 
おそらく、韓国は、わが国が、怖くて仕方がないのだろう。(何が怖いのかわからないが)
 
 
今日、このテーマを選んだのは、外でもない、
 
前述のように「翔ぶが如く」を読んでいて、度々、今日の日韓関係は、征韓論の昔と、少しも変ってないじゃないか、と思っていたところ、
 
たまたま、今日の(8月19日)読売新聞で、次のような本の広告が、目にとまったからである。
 
 
その本は、歴史通(雑誌?)という本で、その2013年9月号の広告、ということらしいが、
 
そこには、「総力特集、『征韓論』から140年、反日に狂う韓国」とあった、のである。

神人冥合と心機の転換

$
0
0
このところ、随分長いこと、瞑想について、書いてないような気がする。
 
なぜか、考えてみると、以前に比べて、瞑想というものに、あまり興味が無くなっているような気がする。
 
瞑想は、無念無想になる為にするものだから、瞑想に興味がなくなったということは、つまり、無念無想についてあまり興味がなくなった、ということを意味する。
 
 
また、近頃は、瞑想をしても、以前のように、意識して、無念無想、無念無想と思わなくなった。
 
要するに、無念無想ということに、あまり、こだわらなくなっているのだ。
 
 
よく考えてみると、
 
特に、無念無想などと、努力しなくても、座った途端、自然に、心は、無念無想になれているようである。
 
というより、立ったり、座ったり、食事をしたり、歯を磨いたり、読書したり、普段の生活をしている時と、瞑想して座っている時と、意識において、さして差がないような気がする。
 
 
つまり、瞑想して無念無想になっている時と、瞑想してない普段の生活をしている時と、意識の間に、さして、差がないような気がするのである。
 
ということは、普段、日常生活を営んでいる時も、その精神状態は、無念無想に近い状態になっているのだろう。
 
 
瞑想をするのは、無念無想になるためであるが、無念無想になるのは、神人冥合を果たすためにするのである。
 
神人冥合とは、気が充満した世界(気しか存在しない世界)を、空の世界と言うが、空の世界とは、言い換えれば又、神や仏の世界とも言える。
 
だから、神人冥合とは、気が充満した世界、つまり、神の世界に、自分の心を、浸し切ることを表す。
 
 
なぜ、無念無想になる為に、神人冥合を果たさなければいけないかというと、心が、神の世界と繋がった途端(これを神人冥合という)、
 
神の世界とは気が充満した世界でもあるから、気が充満した世界から、どんどん、気が心の中に流れ入って来て、それまで、心の中にあった、雑念妄念を排除してくれて、無念無想になれるからである。
 
 
そして又、心の中の雑念妄念が排除され、無念無想になるということは、つまり、心機が転換されることも意味する。
 
心機の転換とは、心を、消極的から、積極的に切り替えることを言う。
 
 
つまり、それまで心の中にあった、消極的な観念(雑念妄念)を、神の世界から入ってきた新しい気が、排除してくれるのである。
 
ということは、日頃、瞑想をして、神人冥合を果たし、無念無想になる訓練を積んでいれば、いつかは、簡単に、心の切り替えができるようになる、ということでもある。
 
 
天風さんは、「心は常に積極的に」という時、よく、熊沢蕃山の「憂きことのなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」という言葉を使う。
 
それは、天風さんの心身統一法の目的が、心機の転換、つまり、心の切り替えが簡単にできるようになるということを目的にして作られているからである。
 
 
人が、心の問題で苦しむのは、結局、心を切り替えられないからである。
 
怒り、悲しみ、怖れがというものが、いつまでも、消えずに、残っていているから、苦しいし、その苦しみが続くから、その内、心のパワーも次第に低下してくる。
 
心のパワーが、極端に、低下した状態を、うつ病とか、統合失調症とか呼ぶのだが、その原因は、元はと言えば、心を消極的から積極的へと、切り替えられないからである。
 
心を簡単に切り替えられるようになれば、熊沢蕃山のように、「辛いこと、悲しいこと、嫌なこと、何でもかかってこい、俺は絶対そういうものには負けないぞ」、という強い気持ちになるんだよ。
 
 
そう言えば、私も、最近、悩み事が、殆どなくなったような気がする。
 
そして、たとえば、これまで、ストレスと考え、「ああ、嫌だな」と思っていたことに出会っても、「よし、これは自分を鍛えるための絶好のチャンスだ、よし頑張るぞ!楽しみだ!」と考えられるようになっている。
 
こういうことを、心機の転換、つまり、心の切り替え、と言うんだよ。
 
 
いくら瞑想をしても、心が簡単に切り替えられないようじゃ、意味ないんだよ。

はだしのゲン、を考える

$
0
0
私たちの意識には、表面に出ている意識、つまり実在意識と、表面には出てこない潜在意識とがあることは、広く、知られていることである。
 
そして、表面に出ている意識は(実在意識)、潜在意識の中に貯められた、観念要素を材料として作られていることも、また、周知の事実である。
 
 
だから、私たちが、こう思いたい、とか、こう思わねばならない、と思っても、そう思うことができないのは、潜在意識の中の観念要素のせいである。
 
つまり、実在意識で、どんなに、プラス思考をしようと思っても、することが出来ないのは、潜在意識の中の観念要素というものが、マイナス思考ばかり、だからである。
 
だから、プラス思考をと、願う人は、先ず、潜在意識の中の観念要素をプラスのものにしなければならないだ。
 
 
即ち、日頃、思うこと考えることが、積極的でありたい、つまり、いつも、明るく、朗らかで、活き活きとして、勇ましく、生きたいと願う人は、
 
先ず、潜在意識の中の考える素(もと)である観念要素を、積極的なものにしなければ、いくら積極的であろうと努めても、そうすることが、出来ないことになる。
 
 
だがしかし、悲しいことに、人の潜在意識の中の観念要素は、普通、怒り、怖れ、悲しみ、といった消極的な観念要素で、満ち満ちている。
 
なぜ、そうなのか、については、先祖から体質として受け継いできたものもあるだろうし、そして人間は、生きるために(生活の為に)、お互いに、闘って来たという事実も考えられるであろうが、
 
ここでは、この程度に止めて、なぜ人間の観念要素が消極的な物ばかりになったかについては、これ以上、深入りしないことにする。
 
 
宗教や、倫理・道徳などで、偉い人から、こう考えなさい、こんな風に考えたらいけない、と言われ、納得しながらも、そうできないのは、潜在意識の中の観念要素が変わってないからだろ。
 
そのことに気がついて、潜在意識の中の観念要素を消極的なものから、積極的なそれへと、変える方法を思いついたのが、中村天風先生の心身統一法というものだろ。
 
 
さて、では、潜在意識の中の観念要素というものは、どういう経過を経て、潜在意識の中に貯えられるかということである。
 
簡単に言えば、これまで、考えたり、思ったり、感覚として経験したことは、全て、観念要素となって潜在意識の貯えられるんだよ。
 
 
なぜか、と言えば、人間には、暗示感受習性と言われるものが、生まれつき本能的に備わっているからだよ。(暗示感受.習性について、さらに詳しく知りたい方は、中村天風先生の著書「真人生の探求」及び、「研心抄」を見てください)
 
そして、この暗示感受習性というのは、夜、寝る前が、最も、鋭敏になるんだよ。
 
だから、夜寝る前の暗示感受習性のことを、心理学では、特別無条件暗示感受習性期(ラッポウー)と言うだろう。
 
 
天風先生の心身統一法の一つである、観念要素の更改法の特徴は、この夜の寝がけを利用して潜在意識の中の観念要素を、消極的から、積極的に更改しようとするものだが、
 
 
変な話になるが、よく、「恋に落ちて」なんて、素晴らしいことをしているように思っているが、あれは、夜、寝る前、交際相手のことを、あれこれ、妄想、逞しくしたりて、考えるから、そういうことになるんだよ。(夜、考えなきゃ、恋に落ちることもないんだよ)
 
そういう意味では、恋なんて、一時的な暗示にかかっている、と言っていい。
 
なにしろ、夜、寝る前は、特別無条件暗示習性期なんだから。
 
 
夜寝る前が、特別無条件暗示感受習性期などという、難しい言葉は知らなくても、昔の人は、夜、寝る前は、そういう時だということを、知っていたんだね。
 
夜、寝る前、囲炉裏のそばに子供たちを集めて、おばあさんや、おじいさんが、桃太郎とか、花咲か爺さんとか、ウサギとカメの話とか、おとぎ話を話して聞かせたのは、
 
夜寝る前が、そういう時であるということを知っていて、何が正しくて、何が悪いことなのか、人間はどう生きるべきなのか、ということを、暗に、物語にして、教えようとしてしてたことだろ。
 
夜、寝る直前も、勿論、暗示にかかり易い時なのに、更に、幼い、子供の時分というものは、誰しも、心が、社会の汚れに染まってなくて、いわば、心がまっさらの状態だから、観念要素を積極的にするには、格好の時期だということを、昔の人はよく知っていたのだよ。
 
 
突然、話は変わるが、イラク戦争の頃の話である。
 
幼い子供を持った、あるお母さんが、戦争は悪である、ということを子供に教えようとして、テレビの中の、特に、悲惨な場面を選んで(死体が転がっている場面か)、を子供に見させたところ、
 
それ以来、この子が、突然、夜中に飛び起きて、大きな声を出して、泣き叫ぶようになった、という話を、テレビで、していた。
 
夜中に飛び起きて、突然大きな声で泣き叫ぶ位だから、お母さんの思惑とは関係なく、その子にとっては、そのことが、強烈な恐怖として、記憶に残ったことは疑いない。
 
お母さんは、わが子が、将来、平和を願い、戦争を憎む子供になってほしい、と思ってしたことが、その子にとっては、強烈な恐怖体験となって、潜在意識の中に刻み込まれてしまった結果である。
 
おそらく、この子は、将来にわたって、長いこと、この恐怖感情を、繰り返し、繰り返し、何度も、味あわねばならぬことになるだろう。
 
 
さて、はだしのゲンのことである。
 
今、テレビでは、松江の教育委員会が、漫画「はだしのゲン」の利用制限(学校図書館での)を、市内の小中学校に出した、とかいって騒いでいる。
 
松江市の教育委員会の言い分は、
 
「はだしのゲン」の中に、旧日本軍がアジアの人々の首を切り落としたり、日本兵が妊婦の腹を切り裂いて、赤ちゃんを取り出したり、女性の性器の中に一升瓶を叩きこんで、骨盤を砕いて殺したりする描写があるから、子供たちに読ませるのは適当ではない、ということらしい。
 
私は、先ほどのイラク戦争の話ではないが、その程度の残虐な場面は、今や、特に、「はだしのゲン」を言わなくても、テレビや、漫画や、インターネット上で溢れているから、
 
殊更、教育委員会などが、目くじら立てて、介入するような問題ではないとは思うが、
 
 
世のお母さん方よ、ああいった残虐な描写は、潜在意識の中に、恐怖の観念を植え付けるだけだから、出来るだけ、貴方達の自分の子供には、見せないようにしなさい、ということだけは言っておきたい。(一生涯、子供が、恐怖に、苦しむことになりますよ)
 
 
特に、戦争反対だとか、平和だとか、教育だとか言って、殊更、戦争の残虐な場面をだけを強調して、子供に見せることだけは、お止めなさい、と、私は、言っておきたい。
 
そういう人達の多くは、理屈で(科学・理論で)この世がわかるように思って、人間とはどういうものか、或いは、人間の心はどうなっているか、ということについて、全く無知だから、結果として、子供にとって、害になるようなことばっかりしているんだよ。
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(仕事が忙しいので、電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
遠隔を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、遠隔治療は、希望者が多いため、キャンセル待ちの状態です。

医療不信

$
0
0
次は、先日、8月18日(日)、読売新聞に載っていた、本の広告である。
 
病院で殺される(船瀬俊介著、三五館刊)
*誰も書けなかった医療現場のブラック
1、10の証拠、ガン治療で毎年28万人が死亡
2、すればするほど死亡率が上がる、輸血の悲劇
3、点滴殺人、仕上げは大量点滴で処分する
4、臨床試験の65%は捏造、データの50%は無効
5、自殺リスクが10倍になる抗うつ剤、蔓延
6、スクープ!長寿神話のペテン数値を暴く
7、某役者も倒れた、白血病という医原病……ほか
 
医学不要論(内科医、内海聡著、三五館刊)
*「現代医学」はイジクリ倒す。だが、その9割は必要ない!
 早く読んでおきたい、イガクムラの真実。
 
以前、近藤誠先生の「医者に殺されない47の心得」(アスコム刊)とか、中村仁一先生の「医者に命を預けるな」(PHP文庫)については、自らも、買って、読んで、そして、ここで紹介した。
 
今、上に挙げた2冊の本は、未だ、買って読んでないが、本のキャッチを見る限り、その内容は、おそらく、前二冊と同じようなものだろう。
 
 
それにしても、驚くべきことは、こういった、いわゆる医療不信に関する本が、最近、次から次に、出版され、何れも、幅広く読まれているらしい、ことである。
 
もっとも、「医者は病気を治せない」ということは、わが国でも、中村天風先生が、半世紀以上も前に、既に、言っていたことであり、特に目新しいことでもない。
 
 
目新しいのは、専門の医者以外の一般の人たちが、やっと、そのことに気が付き始めたということだろう。(気づき始めたから、この手の本が、次から次へと、数多く出版されるのだろう)
 
一般の人は知らなくても、「医者が病気を治せない」ということは、現場で病気の治療に当たっていた医者の間では、とうの昔に、既に、よく知れ渡っていたことなんだよ。
 
 
なぜ、それまで、一般の人が、「医者に行けば病気を治してくれる」と思い込んでいたか、と言うと、
 
先ず第一の理由として考えられるのは、医者自身が、「医者が病気を治せる」如く振る舞っていたということ、(一般の人を、だまし続けていた)
 
そして、医者は、「自分たちは病気を治せない」という事実を知りながら、そう言うと、自分で自分の首を絞めるような結果になるから、
 
つまり、オマンマの食い上げになるから、主に、自分たちの生活上の理由から、ムラ社会を作って、そういう事実が外に漏れないように、してきたのだろう。
 
内科医、内海聡氏が、本の中で、「イガクムラ」と言っているのは、そういうことなのだろう。
 
 
そして、その「イガクムラ」にあって、仲間を裏切って、「医者は病気を治せない」なんて外に向かって、暴露するような人は、ムラから排除されるか、イジメに近い制裁を受けたのだろうと、思う。
 
だから、近藤先生も、「…47の心得」の中で、「88年に文春に『乳がんは切らずに治る』を書いた時、僕は『これは日本医療界への宣戦布告だ。もう出世は望めないし、病院内では村八分にされるだろう。でも、ひとりでもわかってくれたら、それでいい』と腹をくくり、一人で闘ってきました。」と言っているのだろう、と思う。
 
 
しかし、一般の人たちが、医者が病気を治せないことを知らなかった、ということについて、
 
先ず初めに糾弾されるべきは、実態について、知っていたにもかかわらず、ひた隠しに隠して、自分たちの(ムラの)生活を守ろうとしてきた、医者の方にあるにしても、
 
これまで、「(病気になったら)とりあえず病院に行けば、医者が何とかしてくれる。医者は病気の専門家なんだから、病気の防ぎ方も治し方も、よく知っているはず……」なんて、思って来た、貴方達にだって、それ相応の責任はあるんですよ。
 
そういう意味で、近藤誠医師や、上で挙げたその他の先生たちも、自分たちが本を書くことによって、内部の不正・不義を暴くというよりも、普通の人の、病気や薬に対する、無知に対して、警告を鳴らす意味合いが強かった、と思った方がいい。
 
 
なぜ、このように、一般の人が、病気や薬に対して無知だったのかと言うと、それまで、病気は、専門の勉強をしなければわからない、と思っていたのが、
 
インターネットの普及によって、以前より、医学情報がより簡単に、手に入りやすくなった、という点が挙げられる。
 
だから、近藤先生も、「……47の心得」の中で、「今は、調べようと思えば書籍でもインターネットでも、いくらでも(医療の)情報が手に入るいい時代です。今まで、『病気のことは医者を信じてお任せ』だった方も、ここで発想を変えて『医者を疑い、自分で調べて考える』癖をつけてください。」と言っているのだろう。
 
 
それでも、医者にさえ、病気の本当の原因はわからない(本当の原因がわからないから治せない)というのに、どうして、素人の我々が、知ることができるのか?」といった疑問は、依然として、残る。
 
 
そうなんですよ、近藤先生は、「インターネットや書籍」を見て調べてください、と言っているが、インターネットや医学書をいくら研究しても、病気の本当の原因なんてわかりっこないのですよ。
 
よしんば、肉体的な病気の原因がわかったにしても、命が何によって生かされているか、つまり、病気の本当の原因が、わからなければ、病気を治すことはできない。
 
 
中村天風先生は、当時、死病(治らない病気)と言われた奔馬性肺結核という病気をヨガのカリアッパという人の指導によって、治すことが出来た。
 
この自分の体験をもとにして考案されたのが、天風先生の心身統一法というものである。
 
 
結論から言うと、私たちの命の元となっているのは、「気」なんだよ。
 
ばかりか、この世の森羅万象、全て、この気によって(材料として)作られているんだよ。
 
 
この「気」が足りないかから、病気になり、この気が豊富に(普通に)私たちの命の中に入って来るようになれば、どんな病気でも、たちまち、治ってしまう、ということになる。
 
 
この気というものを、命の中に取り入れる方法だったら、それは、ヨガでも、禅でも、何でもいいのだが、
 
一般の人のように、普通の日常生活を営みながら、癌等の難しい病気を治す、と言ったら、天風先生の心身統一法にかなう方法は、他にはないだろうね。
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(仕事が忙しいので、電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
遠隔を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、遠隔治療は、希望者が多いため、キャンセル待ちの状態です。

歴史認識

$
0
0
私は、「歴史認識については」、安倍さんが言っているように、「夫々の国、その立場によって違う」と思っているし、「戦争に、どちらかが悪くて、どちらかが正しい」なんてことは、絶対に、ないと信じている。
 
 
従って、戦勝国が敗戦国を、一方的に裁いた「東京裁判」は間違っていると思うし、東京裁判におけるA級戦犯(政治犯)が靖国神社に祭られているなどと、言いがかりをつけて、
 
8月15日の、終戦記念日が来る度に、「歴史認識、歴史認識」と騒ぎ立て、執拗に、わが国を責めたててくる中国や韓国に対しては、不愉快を通り越して、もはや、あの国は、理解しがたい、異常・異様な国と思っていた。
 
靖国神社に総理大臣が行くかどうかは、あくまでも、わが国の内政上の問題であって、他国からあれこれ言われる筋合いはなく、つまり、中国や韓国の内政干渉である、と思っていることは、今も、変わりはない。
 
 
変わりないが、
 
今日8月26日(月)の読売新聞13面、「思潮」読んで、劇作家の山崎正和氏が、いわゆる「歴史認識」について、次のように言っていることを知った。
 
 
山崎氏は、肩書は劇作家となっているが、地球を俯瞰して物を言っているような、スケールの大きい、地球規模の卓見に接する度に、「この人、何者!」とでも言いたいような、そんな、驚きと賞賛と尊敬の念を、禁じえないでいた。
 
 
山崎氏は、今日の新聞で、次のように言っている。
 
「山崎氏は、『日本は東京裁判で法的に裁かれて、サンフランシスコ講和条約の中で、その判決を認めると約束した。そのことが歴史学的に正しかろうが正しくなかろうが、そういう約束をしたということが政治的な現実』と強調。約束はアメリカ流の『司法取引』であり、その変更はアメリカの反感を買うため、慎重であるべきだという」
 
これまで、わが国に好意を持っていると思われるようなアメリカ人、つまり、親日家と言わるような人たちであっても、
 
こと「歴史認識」になると、眉をひそめるようにして、「そうことは、言わない方がいい、貴方の国にとって為にならない」などと、言っているのをテレビなどで見ていて、不思議と言うより、奇異な感がしていたが、
 
上のような、山崎氏の主張に接して以来、
 
その時、彼ら、アメリカの親日家たちが、言いたかったのは、「貴方達日本人は、東京裁判を認めることによって、貴方達の歴史が間違っていたことを認めたじゃないか」ということだったのではないかと、思った。
 
 
そういったアメリカ人の対日感情に割って入って、日本に対する外交上のカードを持つことと、アメリカと日本の間に楔を打ち込み、離間を誘う、という目的のために、中国や韓国はいろんなことを言っているのだろう。
 
だから、彼ら中国や韓国は、日本に向かって「歴史認識、歴史認識」と言っているように見えて、実は、アメリカに向かって、同調することを訴えて続けているのではないだろうか。
 
いわば、中国や韓国は、アメリカの尻馬に乗っかって、騒いでいるようなものである。
 
 
だから、山崎正和氏は、いわれなき中国や韓国の誹謗中傷に対して、「東京裁判は間違いだった」とか、「歴史の見方は、それぞれの国によって見方が違う」なんて、政治家が言うと、
 
そのことが、延いては、同盟国であるアメリカを刺激して、反感を買い、日米関係が悪化しかねないから、政治家の発言は慎重にと言っているのだ、と思う。
 
 
アメリカの司法取引というものが、人間同士の、或いは国家との間で、どの程度重要性を持ているものなか、その程度について、残念ながら、うかがい知ることはできないが、
 
何事も契約によって成り立っているアメリカのことだから、日本から「東京裁判は間違いだった」などと言われると、「あんたたちは、あの時、認めると言ったから、条約を結んだんじゃないか」と、アメリカ人が、反感を持つということも、あながち、理解できないことではない。
 
 
サンフランシスコ条約というものがどういう内容のものかについては、よく知らないが、少なくても条約である限り、不平等条約ということもあり得る。
 
わが国としては、東京裁判がどうのこうの、と言う前に、先ず、サンフランシスコ条約というものが、我が国にとっては、非常に不利な条件下で結ばれた、不平等条約であることを、粘り強く国際世論に訴え、サンフランシスコ条約の改正を訴え続けなければならない、のではないかと思う。
 
 
「敵は本能寺にあり」というが、こと、「歴史認識」に関する限り、本当の敵は、中国や韓国ではなく、実は、同盟国のアメリカであることを、山崎氏から学んだ次第である。

遠隔治療の原理

$
0
0
キリスト教徒からは、「はなはだ、不敬!」などと非難されそうだが、
 
実際、幼い頃から、これまで、ズーッと、なぜクリスチャンは「アーメン」などと言うのだろう、と疑問に思って来た。
 
高校時代、「英語の勉強」などと誘われて、外人の宣教師の所に行ったりすると、そこでは、何をするんでも、「アーメン」に始まって、「アーメン」で終わっていた。
 
 
今でもそうだが、その頃も、どんな宗教にも、全く、興味を持ってなかったから、
 
食事の前など、宣教師の先導で、「アーメン」と言った後で、なぜか、急に、おかしくなって、思わず、吹き出しそうになったりしたこともある。
 
 
キリスト教ばかりではない、仏教だって、「南無阿弥陀仏」と言ったり、「南無観世音大菩薩」と言ったり、「南無大師遍照金剛」と言ったりする。イスラム教でも「セーラム」などと言う。
 
 
キリスト教の「アーメン」だけではなく、これら宗教がことごとく、似たような、お呪い(まじない)を言うのはなぜなんだろう?
 
長年、なぜこんな無意味なことをするのだろう、と思っていた。
 
ばかりでなく、「アーメン」とか、「南無阿弥陀仏」とか、「セーラム」とか言っただけで、救われるなら、人生、何の苦労もいらないや、と思っていた。
 
 
とは言っても、これらのお呪い(まじない)が、仏陀や、イエスキリストや、マホメットに、直接呼びかける、呼びかけ語であろうことぐらいのことは、薄々、感じていた。
 
ところが、この私も、今日でその治療も終わり、という時など、「これからも、何か苦しいことがあったら、私の名前を呼びなさい」と、言うことがある。
 
 
それは、日頃、遠隔治療は、電話によってお互いの気持ちが繋がったら、私の方から、患者の方へ、「気」が流れて行って、病気を治している、と思っているからである。
 
 
そう思う証拠は、色々ある。
 
例えば、電話でなくても、今日は先生の所で治療を受ける日だ、と思って、家を出た途端、それまであった、痛みや不快感が無くなった、とか、
 
或いは、余りにも痛いので、予約はしてないが、先生に診てもらおうと、途中まで来たら、嘘のようにその痛みが無くなっていた、と言うような事例は、それこそ数えきれないほどある。
 
おそらく、これらの事例は、電話による遠隔治療と同様、私のことを思ったことによって、気持ちが繋がり、私の方から、「気」が患者の方へと流れて行き、痛みが治った証拠のようなものじゃないか、と思う。
 
 
ところで、肉体は滅びても、霊魂は、永遠に、この世から無くなることはない。
 
と言うことは、キリストや、仏陀や、マホメットにしても、亡くなって、肉体は滅んでも、霊魂は、この世に、まだ、残っている、ということでもある。
 
 
だから、「アーメン」とか、「南無阿弥陀仏」とか、「セーラム」とかの呼びかけると、彼らの魂と繋がり、繋がったら、彼らの方から、呼びかけた人に、「気」が流れ入って、病気が治っているのではないかと、思う。
 
 
機会があったら、信仰を持っていて、なにがしか、具体的なご利益があったというような人に、一度、聞いてみたいと思っているのだが、
 
聞くまでもなく、何の効果もないのに、これほど多くの人が、「アーメン」とか、「南無阿弥陀仏」とか「セーラム」といった言葉を、口にしたりするものだろうか。
 
つまり、そう言うことによって、何らかのご利益を実感しているから、多くの人がそうしているのではないだろうか。
 
 
自らを、仏陀やキリストやマホメットに、なぞらえる気など、さらさらないが、
 
私の電話による遠隔治療も、原理的には、死んだキリストに対して、「アーメン」と呼びかけるのと、同じことじゃないか、と思ったりする。

偽善

$
0
0
読売新聞、今日、8月31日(土)の「時代の証言者」の、証言者は、京料理 美濃吉 代表 佐竹力総(りきふさ)氏である。
 
シリーズで、何週間間か続いた後、今日が、最終回という。
 
 
私がへそ曲がりなのか、きっと、そうだと思うのだが、記事の中で次のような下りが、とても、気になった。
 
気になった、というどころではない、その時、ひょいと心の中に浮かんだのは、もしかしたら、この人、「偽善者?」という思いだった。
 
 
次は、その「時代の証言者」から、引いたものである。
 
「30年ほど前、京都青年会議所で京セラ創立者稲盛和夫さんのお話を伺ってから、『動機善なりや、私心なかりしか』を座右の銘にしています。どんな仕事を受ける時も、自分が得をするとか有名になるとか、私欲で考えてはいけないと、自戒してきました。」
 
この下り、受け取りようによっては、自分の本業以外の仕事(団体の役員等)を引き受ける時は、「動機善なりや、私心なかりしか」を判断基準している、と受け取ることもできるが、
 
私は、そうではなく、自分の会社経営も含めて、そういうことをモットーにしていると受け取ったから、「うん!この人、偽善者?」と思ったのである。
 
 
本業以外の仕事を引き受ける時は、そういうことを座右の銘にしていると、はっきり、書いてあれば、そうも思わなかったのだろうが、
 
といって、今更、そのことを、新聞社に問い合わせる気にもならない。
 
 
これは、京セラ創業者の稲盛和夫氏が、モットーとしている言葉だと言うから、
 
ということは、ひよっとしたら、「稲盛氏も本当は偽善者?」と言うことにもなりかねないのだが、違うと言う確証も、今のところ、掴めないでいる。
 
 
と言うのも、経営者たるもの、そもそも、利益を上げることを目的とすることなくして、会社を経営することが出来るのだろうか、と思うからである。?
 
資本主義社会で会社を経営していく以上、所詮、利益を上げられない会社は、淘汰される運命にある。
 
営利企業で、利益を上げずに、長年、経営が成り立っている、という話は、聞いたことがない。
 
 
京セラの稲盛さんや、美濃吉の佐竹さんは、創業時は勿論のこと、その時々の経営環境に対応するため、自分の会社が儲かることを考えないで、経営してきたのだろうか?
 
元来、利益を上げるということは、儲かりたいという欲望、つまり、私心に基づくものじゃないのだろうか、それとも、彼らは、会社を儲からせたいと思うのは、私心ではない、と言い張るのだろうか?
 
であるなら、母親が子供のためと言いつつ、周囲に迷惑をかけているのと、少しも変わらない、と言うことになる。(それは、形を変えたエゴに違いない)
 
 
それに、稲盛さんにしても、佐竹さんにしても、創業の時(佐竹さんは創業者ではないが)これは社会にとって、いい仕事かどうか、つまり、「これは善なりや、否や」ということを考えて、仕事を始めたはずがない。
 
絶対と言っていいほど、「この仕事は儲かるかどうか?」という判断に基づいて行動してきたはずである。
 
そういう欲望のために基礎が置かれ、その基礎の上に長年築かれ今日まで成長してきた会社が、今は、私欲がないなんて、言えるのだろうか。
 
 
それでも、彼らが、「これは善なりや、否か」ということを、行動基準としてきたと言うのなら、おそらく、己の中の欲望に気がついてないからだろう。
 
よく禅坊主が、「欲を捨てなさい」、というが、確かに、悟る為には、世俗的な欲を追いかけ廻していては、悟ることはできない。とは言いつつも、「欲を捨てたい」と思うのも、欲ではないかと思う。
 
 
そもそも、会社の経営者というのは、社員の、出世したいとか、お金持ちになりたいとか、いい仕事をしたとか、そういった欲望を刺激しながら、利益を上げてきた人たちではないのだろうか。(自分の欲望を達成する為に、他人の欲望を利用して来た、証拠とも言える)
 
京セラにしても、稲盛さんは、よく「人間は働かなければならない、働くのが当たり前」と言うが、その裏では、出世競争や、厳しすぎる労働条件に負けて、脱落(退社)する人も後を絶たない、という噂もある。
 
 
昔から「士農工商」というが、この制度は、そもそも、その仕事が、公に為にやっている仕事かどうかを基準にして決められた身分制度である。
 
つまり、武士は、自分の命を捨てて、国家国民の為に働く仕事、と思われていたから、曲りなりにも、そのトップの位置に居続けられたのである。
 
 
インドは、いまだに、カースト制と言う身分制度があって、その頂点には、なんと、坊さんが居るのだと言う。
 
インドで坊さんが大切にされるのは、自分の生活を捨てて、神に奉仕する仕事、と思われているから、そのような身分制度が成り立っているのである。
 
 
一方、ベニスの商人(商売)が軽蔑されるのは、自分の利益(お金儲け)の為には、人を欺いたり、延いては、人殺しもやりかねない仕事だから、である。
 
ベニスの商人を持ち出さないまでも、商売というのは、似たり寄ったり、そういう性質のものだろう。
 
 
稲盛さんにしても、美濃吉の佐竹さんにしても、純粋に、「動機善なりや、私心なかりしか」を生涯貫き通したい、と願うなら、今の、ビジネス(商売)から足を洗わない限り、無理なのではないのだろうか。
 
 
親鸞は「悪人正機」と言って、悪人こそは、自分の罪を意識している分、善人よりも救われる機会が多い、と言った。
 
 
稲盛さんも、佐竹さんも、それなりに立派なことをしてきた、立派な人格の方なのだろうが、
 
このように、正面切って、立派なことを言われると、「生きると言うことは、そんなに、きれいごとばかりじゃ、済まないじゃないか」と思ってみたり、
 
商売人は、商売人らしく、あっけらかんと、「儲かりまっか」、と言っている方に、つい、肩を入れたくなったりする。
 
 
悪人正機ではないが、大阪商人の方が、自分がしていることを、よくわきまえているような気がする。
 

疲労の原因

$
0
0
日曜日の夜、6:30から、TBSが、「夢の扉」、という番組を放映している。
 
好きで、時々、見ているが、昨日(9月1日)は、大阪私立大学の渡辺恭良(やすよし)教授が主体となって、進めているという、疲労物質の研究が、テーマとなっていた。
 
 
だから、番組のタイトルは、「さらば疲労、驚きの疲労回復食とは」だった。
 
 
渡辺教授によれば、疲労の原因は、実は、巷間伝えられる、血液中の乳酸濃度にあるのではなく、活性酸素の働きによって発生する、FFと呼ばれる疲労物質にあるのだ、と言う。
 
そして、このFFという疲労原因物質が発見されたことと併せて、疲労を回復させるFRという物質も発見されていて、そのFRの働きを増強させるのが、鳥の胸肉などに含まれている、イミダペプチドというものらしい。
 
 
ところで、疲労と言えば、慢性疲労症候群という病気がある。
 
原因不明の強度の疲労が、長期間、続く病気である。
 
血液検査をしても、CT検査やMRI検査をしても、原因がよくわからない。
 
激しい疲労感に加えて、微熱があったり、何をするにもやる気が起きなかったりするから、仮病を疑われたり、病院では、心の病を疑われて、心療内科や、精神科に回されることも多い、と聞く。
 
 
さて、私の所は、病院や、鍼灸など、どこへ行っても、治らない病気の人が来る所である。
 
最近、慢性疲労症候群と思われる症状の患者が、特に、多くなった。(勿論、どこでも治らなかったから来る。)
 
 
これは、ストレス社会がもたらす、社会現象、とも言えるのだろう。
 
病院も含めて、慢性疲労症候群を治せる所はないが、サイ気療では、割と、簡単に治る。
 
それは、この病気が、「気」と、関係が、特別、強いためだろう。
 
 
言うまでもないが、ストレスというのは、心にかかる負荷(負担)のことを言う。
 
さらに、具体的に言うなら、心にかかる負荷とは、怒り、怖れ、悲しみといったマイナス思考のことを指す。
 
 
人間の命というのは、「気」によって、生かされ、保たれている。
 
この「気」が、私たちの命の中に、スムーズに入っていれば、健康でいられるが、それが、ストレスによって妨害され不足するから、病気になる。
 
 
つまり、「気」を、命に取り入れる分量は、「心」の状態如何によっている。
 
心が、明るく、朗らかで、活き活きとして勇ましい状態、つまり、プラス思考の状態の時は、「気」が豊富に入って来て、
 
反対に、心が、怒り、怖れ、悲しみといったマイナス思考の状態の時は、「気」が命の中に入って来にくくなる。
 
 
私なら、体を、ちょっと触っただけで、慢性疲労症候群かどうか、直ぐわかる。
 
どう、わかるかと言うと、神経が炎症を起こして固くなっていて、その為に、皮膚がブヨブヨたるんでいたり、あたかも、太っているかのように、浮腫んでいたりする、からである。
 
 
だから、慢性疲労症候群という病気は、神経が炎症を起こしてなる病気、ということができる。
 
なぜ、神経が炎症を起こすかと言えば、神経を流れて私たちの命を保ってくれている「気」が、ストレスの為に不足するからである。
 
 
足りないものは、足りないものを補ってやりさえすれば、たちまち、回復して、健康な状態に戻る。
 
この病気を、簡単に治せるのは、私の手(指)先から、「気」が放出され、神経の中で不足している「気」が、補われ、従って、神経の炎症が止むからであろう。
 
 
これは、理屈ではなく、治るという事実から導き出された、結論である。
 
理屈に合わないから、間違いだと思う人は、私の所へ来て、試してみれば、私の言っていることが間違いかどうか、直ぐ、わかる。
 
 
こうした事実を、それこそ日常茶飯事のように見ていると、大阪市立大学の渡辺教授が、疲労の原因が究明され、しかも、疲労を回復させる物質が見つかったと言っても、
 
現実には、慢性疲労症候群みたいな病気は、絶対に治せないだろう、と思う。(彼らが見つけたと称しているものが、疲労の真の原因なら、慢性疲労症候群の疲れなど、直ちに、治せりはずである)
 
 
疲労回復物質と言っても、これは、おそらく、ニンニクを食べたら元気なったとか、朝鮮ニンジンを食べたら元気になった、とかいった類のものに過ぎないだろう。
 
つまり、そういうものを食べて、元気になったと言っても、それは、あくまでも、限定的・一時的な、一過性の現象に過ぎない。
 
ニンニクや朝鮮ニンジンで、慢性疲労症候群が治った、という話はこれまで聞いたことがない。(そんな生易しい症状ではない)
 
 
繰り返すが、人間の命というものは、「気」によって保たれている。
 
否、この世の森羅万象は「気」によって作られている。(これは真理である)
 
つまり、この世の物質というものは、「気」を材料として出来ている。
 
従って、人間の肉体も、「気」を材料にして作られている。
 
 
渡辺教授を含めて、現代医学というものは、肉体と言う物質しか扱わないから、
 
物質は、「気」によって出来ているのだから、疲労の原因を、肉体という物質に求め、原因が発見された、と言っても、それは、所詮、疲労の二次的原因といったものに過ぎない。
 
 
言い換えるなら、「気」が不足した結果として、肉体上の疲労というものが起きているわけだから、
 
出てきた結果である、肉体上の疲労物質というものを、いくら、追いかけたところで、真の原因が出てくるわけがない。
 
 
昨日、テレビを見ながら、
 
疲労の真の原因は、まだ、わかってないわけだから、(未来永劫にわたって、現代医学は、見つけることはできないだろう。(痛みの原因がわからないのと一緒だよ)
 
今後、渡辺教授等が、どんなに頑張ったところで、残念ながら、慢性疲労症候群という病気など、絶対に治すことはできないだろう、と思った。
 
私が言っていることが正しいことは、日が経つに従って、次第に、事実によって証明されることになるだろう。

現代医学の限界

$
0
0
近藤誠先生、中村仁一先生に続いて、「医者は病気を治せない」といった趣旨の本が、最近、それこそ、あたかも、堰を切ったか如く、次々に、出版されている。
 
とは言っても、最近になって、そういうことがわかった、或いは、初めて話題に上がって来た、ということではなさそうである。
 
つまり、内部(医学界)では、かなり以前から囁かれ、半ば、常識的になっていたようなことが、内部だけで抑えきれず、ここに来て、遂に、外部にまで迸り出始めた、と思った方がいいようである。
 
 
いま、手元に、「脳+心+遺伝子 VS. サムシンググレート」と題する、やたら長い題名の、一冊の本がある。
 
著者も、また、題名同様、「養老孟司、茂木健一郎、村上和雄、竹内薫」と言った塩梅で、盛り沢山、にぎやか、である。
 
出版社は、徳間書店、2003年3月31日、初刊である。(約10年前に出された本であることに注目)
 
 
この本で、最も、注目されることは、養老孟司さんが、「現代医学は行き詰っている」と次のように言っていることである。
 
「かつてのように結核菌がいるから結核になるんだ、だから結核菌を叩けば話が済むということではない。結核菌を叩くところまではいいんだけど、そこから、あと、どうして結核が治ったかというのは、身体(自然治癒力)が勝手にやったことで医者は絡んでないわけです。だから、それは勝手に治ったということで、治療というのは結核菌を叩いてやったということにすぎないんですね」
 
これだけでは、わかりずらいと思うので、少し手を加えてみることにする。
 
「結核という病気は、肺に結核菌がとりついて、繁殖し、結核菌が肺細胞を蚕食破壊し、肺の機能が衰えて、遂には、停止し、死に至る病」と言っていい。
 
ところが、薬によって、結核菌を殺すまでは、現代医学の勝利だったんだけれど、では、なぜ結核菌を殺したら、新しい細胞が生まれ、そして、肺としての機能を取り戻すに至ったか、ということについては、現代医学は、何の貢献もしていない、というのが養老さんの言いたい趣旨なのです。
 
 
新しい細胞が芽生え、肺としての機能が復活した、つまり、病気が治った、というのは、自然治癒力が、そうしたのであって、それは現代医学とは、何ら関係がない、ということなのである。
 
と言うよりも、むしろ、現代医学では、どうしてそうなるのか(自然治癒力で病気が治る)さえ、わかっていない、と言った方がいいでしょう。
 
このことを、ありていに言えば、「現代医学は、病気を治すことはできない」とうことが、わかった、ということになる。
 
 
このことを、養老さんは、「現代医学は行き詰った」と言っているのだが、
 
そのまま(行き詰ったまま)、なすすべもなく、今日まで来て、
 
最近になって、そのことを近藤さんや中村さんが、外に向かって、はっきり、言い始めた、というのが真相じゃないかと、思います。
 
 
なぜ、現代医学が病気を治せないかと言うと、それは、私たちの命というものが、どうして生きているか、ということがわかってないからです。
 
上で、養老さんは、自然治療力が病気を治した、と言っていますが、養老さんも含めて、現代医学は、私たちの体には、本来病気を治す力が備わっているらしい、と気が付いてはいても、それが何なのかについては、全く、わかっていないのです。
 
つまり、彼ら(現代医学は)は、彼ら自身が、「自然治癒力」と言っているものが、私たちの命を生かしている元である、ということについても、全く知らない、ということになる。
 
 
この自然治癒力が何なのか、ということについて、現代医学が全くわかってない証拠として、本の共著者で、遺伝子研究の権威、村上和雄さんが、次のように言っていることから、わかります。
 
「今、命は命からしか生み出されていない。要するに、人間は命を生み出していないのです。たとえば、私たちは『赤ちゃんを作る』と言いますが、それは人間の傲慢であって、人間はカビ一匹も元から作れないわけです。なぜ作れないかというと、生き物の基本的なメカニズムについて細胞一つまだわかっていないからです。」
 
彼が、ここで「生き物の基本的なメカニズム」と言っているのは、つまり、生き物が生きているということのメカニズム、つまり、命のメカニズムがわかってない、ということなのです。
 
 
彼は、同じ本で、別の箇所ですが、次のように言っています。
 
「わたしどもは生きているということは当たり前だと思っていますが、けっして当たり前ではないのです。当たり前どころか、カビ一匹でも生きているということは、現代科学から見てすごいことなんです。今の現代科学が逆立ちしても、コピーからコピーはいくらでも作れますが、世界の富を全部集めても、カビ一匹元から作れないのです。大腸菌で人のホルモンまで作るようなことができるのに、カビ一匹元から作れない。
なぜ作れないかと言うと、大腸菌様がいったい何で生きておられるのか、基本的なことがわからない。だから作れない。」
 
彼は、大腸菌がいったい何で生きているのか、つまり、大腸菌の命を生かしているものが何のかわからない、だから、大腸菌一匹、作れないと言って、そのことを、さらに詳しく、こう言っています。
 
「大腸菌については1997年、全ての遺伝子番号が解読できました。ということは、どんな部品から出来ているか、どんなエネルギーが必要かということもわかっているということです。
たとえて言うなら、車の設計図もわかっているし、部品も用意できた、ガソリンもあるのに、スイッチが入らない、だから、車が動き出さない、ということと同じです。」
 
 
さて、私たちは、普通、五臓六腑が動いて血液を作り出し、その血液が細胞に栄養を供給するから生きていられる、と思っている。
 
ところが、五臓六腑は自分で自分を動かす力は持っていません。では、どうやって五臓六腑はどうやって動いているのでしょう?
 
五臓六腑は、自律神経によって動かされているが、
 
この世にエネルギーなしで動くものはないから、何かが動かしているから、自律神経も、動いていられるのでしょう。
 
 
結論を先にすれば、私たちの五臓六腑は、自律神経を流れてくる「気」をエネルギーとして、動いているのです。
 
車のエンジンを作動させるには、セルモーターを回さなければ車は動かないが、その時、電気系統を流れて、エンジンを動かす電気に相当するものが、人間で言えば、自律神経を流れる「気」と言うことになる。
 
村上和雄さんが、「命のメカニズムがわからない」、と言っているのは、このような、命を動かしているメカニズムがわからない、と言っているのです。
 
 
しかし、私たちの五感に感じる、いわゆる物質しか扱わない現代医学は、五感で感じることができない「気」は、わからないし、ましてや、それを作り出すことなど、全くもって、不可能である。
 
私がよく、「現代医学は、未来永劫にわたって、病気を治すことはできない」、と言っているのは、現代医学というものは、そもそも、出発点からして、そういう限界をもっているからなのです。
 
 
村上さんが、「命のメカニズムがわからないから、だから、大腸菌一匹、元から作れない」と言っているのも、「現代医学が病気を治すことができない」のも、まったく同じ意味で、つまりは、「気」がわかってないからである。
 
 
私たちの命を生かしているものが何なのか、と言うことがわからないと言うことは、「本当の自分(真我)」とは何なのか、と言うこともわからない、ということである。
 
なぜなら、「本当の自分」、つまり、「真我」というものは、五感で感じることができない、「気」という気体から出来ているからである。
 
 
だから、「気」がわからないと言うことは、つまり、本当の自分が(真我)が何なのか、ということもわからないということになる。
 
ところが、現代医学ばかりでなく、私たち人類の不幸の全ては、「真我」というものが何なのかわからず、延いては、この世には物質しか存在しない、だから、人間とは、肉体と言われる物質である、と考える所から始まる。
 
 
さて、今日のテーマは「現代医学の限界」であるが、
 
限界は、彼ら、現代医学(医者たち)だけの問題だけではない。
 
貴方達が、癌などの、大病をして、どこへ行っても、何をしても、病気を治すことができず、周章狼狽、ウロウロ、慌てふためいたりするのも、全て、「気」というものがわかってないからである。

ストレスと神経の炎症

$
0
0
現在、難病と言って、現代医学が治せない病気の、その殆どが、神経の炎症によるものと思われる。
 
先日、お腹が張って苦しい、といって治療にみえたご婦人がいた。
 
見ると、下腹が、妊娠したか、狸のお腹の如く、パンパンに腫れている。
 
 
医者に行ったら、レントゲンを撮りましょう、と言い、その結果、ガスが溜っている、と言って、漢方薬をくれたのだという。
 
その時、医者にも言ったらしいが、便は毎日、1回、ちゃんと普通に出ている、ということであった。
 
瞬間、おかしい、と思ったのは、便がちゃんと出ていて、なぜ、ガスだけ溜まって出てこないのか?ということだった。
 
 
勿論、医者がくれた漢方薬を飲んでも、少しもよくならなかったから、私の所に来たのである。
 
早速、ベッドに寝てもらって、下腹を触ると、確かに全体的にはひどく張ってはいるが、反面、表面の皮膚はブヨブヨ、弛んでいる。
 
 
暫く、手を置いたままにしていると、張っていたお腹が、次第に、スーッ、スーッ、と腫れが引いていく様子が、手に伝わって来る。
 
と同時に、ブヨブヨしていた皮膚の下に、固くなった神経を感じる。
 
 
ということは、この人のお腹の腫れは、神経が炎症を起こしてために、起きていたということになる。
 
30分間の治療が終わって、帰る時、「先生、大分楽になりました。あんなに張っていたお腹も、こんなに小さくなりました」と言いつつ、自分のお腹を、パンパン叩いてみせた。
 
 
帰り際、「先生どうして、こうなるんでしょう?」と訊くから、「貴方の性格でしょう、つまりストレスでしょう」と答えたら、「これから、どうしたらいいんでしょう?」と畳みかけてくる。
 
 
こういう質問は、実に、困るんですよ。
 
なぜなら、病気の原因が、ストレス、と言ったところで、現実には、何を言ったことにもならないでしょう。
 
つまり、ストレスが病気の原因、と言ったところで、では、ストレスを防いで、病気にならないようにするためには、どうしたらいいでしょう、と訊かれたら、答えようがないじゃないですか。
 
 
ストレスを防ぐ方法はない、と言っているんじゃないですよ、ストレスを防ぐ方法はあるんですよ。
 
しかし、医者で薬をもらって飲むように、或いは、医者から、病気に対する生活指導を受けるように、簡単にはいかない、ということなんですよ。
 
 
約百年も前に、ハンス・セリエ博士が、ストレスと病気の関係を、症例をもって、実証して見せた。
 
その時も、セリエ博士は、ストレスを防ぐ方法については、何も言ってないが、
 
現在も、実態は、その時と、何ら変わりはなく、現代医学は、いまだに、ストレスを防ぐ方法を何ら言ってない。
 
 
天風先生が教えている心身統一法というのは、そのストレスを防ぐ方法なのだが、これとても、肩こりにサロンパスを張るように、これをやったら、簡単に、ストレスを感じなくなる、というものでもない。
 
つまり、先生の教えというものを、日常の生活に溶け込まして、つまり、自分の生き方を変えるようにしなければ、心なんて、とても、簡単に変わるものじゃない。
 
 
最近、特に、神経を腫らして、どこへ行っても病気が治らなくて、私の所に駆け込んでくる人が多くなったが、
 
そういう人は、私の治療を受けて、良くなったら、必ず、「先生、これから、どうしたらいいんでしょうか?」と訊くんですよ。
 
 
訊く方は、これから先の自分の人生のことを考えて、それこそ必死の思いで、そう訊くんでしょうけど、
 
こと、ストレスが原因でなった病気を、「どうしたいいんでしょうか?」と訊かれても、答えるのは、言うほど、簡単じゃない。
 
少なくとも、治療が済んだ後、立ち話のようにして、2~3分の間に、教えられるというものではない。
 
 
私が、サイ気療で、うつ病とか、統合失調症とかの、心の病を扱わないのも、そして、メールなどを通じた、心に関する質問についても、積極的に答えようとしないのは、言ってしまえば、心の問題は、答えようにも、簡単ではないからである。
 
 
天風先生について、少しでも、知っている人なら、天風会にでも入って、勉強しなさい(実際、そう言うしか、適当な方法はない)とも言うことができるが、
 
先ほどのご婦人のように、自分自身、既に、80歳を過ぎて、しかも、毎日、ご主人の介護で忙しい人に、いまさら、天風会の話をするわけにもいかない。
 
だから、「様子を見て、悪くなったら、又、いらっしゃい」と、答えるしかなかった。

先天性難聴者(疾患者)に朗報

$
0
0
難聴に限らず、先天性などと言うと、一生、絶対に治らない病気かのように思い込んでいる人が多い。
 
 
先日、日頃、遠隔治療を受けている、先天性難聴の人から、「補聴器を使わずに、普通の会話ができるようになりました」という趣旨のメールを頂いた。
 
遠隔と言っても、その前に、何回か、私の鹿児島の診療所に来て、直接のサイ気療を受けているから、遠隔治療だけで先天性難聴が治った、というわけではない。
 
 
それでも、先天性難聴と宣言され、本人も、長いこと、一生治らないかのように思い込んでいた耳の病気が、補聴器を使わずに、普通に会話ができるようになった、という事実は重い。
 
 
私は、難聴に限らず、先天性疾患などというものはない、と思っている。
 
だから、先天性疾患というものが、一生、治らない不治の病などと、思うのはとんでもない間違いだと、言っておきたい。
 
 
それでは、なぜ、普通、皆、先天性の疾患を、一生治らない病かのように思い込んでいるのは、現代医学(医者)と大いに関係ありそうである。
 
普通、先天性難聴に限らず、先天性と名がついたら、あたかも、一生、絶対に治らないかのように思われているのは、現代医学、つまり、お医者さん自身がそう思い込んでいるからではないだろうか。
 
お医者さんがそう思い、他に対しても、そういう言い方をするから、世間も、その言葉を信じ、そう思うのだろう、と思う。
 
つまり、世間が、先天性の疾患は、一生、治らない病気と、思い込むのは、お医者さんのせい、と言いたいんだよ。
 
 
簡単に言えば、現代医学が、自分達が治せない病気を難病と言っているに等しい。
 
 
何故、医者が、難病を治せないかと言えば、それは、これまでも、このブログで、何遍も、繰り返し、言っているように、現代医学は、病気の真の原因がわからないからである。
 
つまり、人間の命というものが、何によって保たれているのか、わかっていないからである。
 
 
いつも、私が言っているように、人間の命というものは、「気」によって生かされ、保たれている。
 
「気」というものは、私たちの神経系統を流れて、私たちの命を保ってくれている。
 
だから、この神経系統に流れる「気」の分量が、不足するか、或いは、停滞することによって、病気は発生する。
 
神経系統の中の「気」の不足や停滞は、神経の炎症となって、発現する。
 
 
その証拠に、現在、現代医学が治せない、難病と称される病気の、その殆どは、神経の炎症によって引き起こされていることから、そのことがわかる。
 
言ってしまえば、現在、難病と言われている病気の殆どが、神経の炎症によって起きているのだよ。
 
つまり、難病とは、現代医学が、神経の炎症を治せないから、そう言っているだけなんだよ。
 
 
難病と言われる、中耳炎を含めて、突発性難聴や、メニエール病などの耳の病気は、その殆どが、耳の周辺の神経の炎症によってもたらされるものである。
 
神経の炎症を治せないから、現代医学は、これらの難病を治せないのだ。
 
 
先天性難聴も、中耳炎やメニエールや突発性難聴と、その原因が神経の炎症によるものであることにおいては、何ら変わるところはない。
 
だから、先天性難聴も、耳の周囲の神経が炎症を起こし、その炎症の影響を受けて、聞くことを難しくしているものである。
 
だから、耳の周囲の神経の炎症が無くなれば、当然、聞く能力も回復して来るのである。
 
 
これまで、多くの先天性難聴者の治療に当たって来た経験からして、
 
先天性難聴とは、親からの遺伝によって、神経が炎症を起こしやすくして生まれたか、或いは、生まれる前、母親の胎内で、既に、神経が炎症を起こしていたものと、思われる。
 
その証拠に、先天性難聴の人は、必ずと言っていいほど、耳の周辺ばかりでなく、身体全体の神経が炎症を起こして腫れている人が多い。
 
つまり、全身の神経が炎症を起こしていて、その一部分として、耳の周囲の神経も炎症起こしていて、その為に、聞こえにくくなっているのだと、思われる。
 
 
先天性難聴だけでなく、赤ちゃんで、全身の神経が炎症を起こしている例は、結構多い。
 
そういう場合、赤ちゃんがむずかって、泣き止まず、しかも、比較的高い熱があるにも関わらず、医者に行っても、原因が特定できないことが多い。
 
原因がわからないから、当然、病院は、病気を、治すことはできない。
 
 
赤ちゃんでも高熱が長く続けば、衰弱してくるから、どこに行ってもよくならなくて、私の所に連れてくることになる。
 
そいう子供の背中を、私が、静かに、さすっているだけで、直ぐに泣き止み、すやすや寝始める。
 
神経の炎症が止むから、気分が良くなり、気分がいいから、寝始めるのだ。
 
当然、その後、病気は、それだけで既に、治っている。
 
そういう赤ちゃんがいる人は、私の所にいらっしゃい。他所では治らないよ。
 
 
余談になったが、先天性の疾患が、生まれつきで、従って、一生治らない、というのは真っ赤なウソだからね。
 
お医者さんは、自分が、神経の炎症を治せないもんだから、そう言っているに過ぎないんだよ。
 
 
先天性の難聴と言われ、補聴器が外せなかったこの患者が、先日、「補聴器なしで、普通に、会話ができるようになりました」、と喜びのメールくれた時、
 
私は、とっさに、これで、先天性の難聴ばかりでなく、多くの先天性疾患が救われる、これは朗報だ、と思った。
 
 
メールには「これも、先生の遠隔治療のお蔭です。感謝します」と感謝の言葉が述べられてあったが、
 
感謝を言いたいのは、むしろ、こっちの方だよ、先天性難聴(疾患)でも、サイ気療で治ることを示してくれたのは、あっちの方だもの。

心というものは

$
0
0
心の病は、心に何かを施すことによってしか、治すことはできない。
 
つまり、心の病を、脳を含めて、肉体に何かを施すことで、治すことは、絶対に、できない。
 
要するに、心の病は、薬によっては、治すことはできない、ということである。
 
 
なぜなら、心と体の関係は、川に例えれば、心が川上で、身体が、川下ということになるからである。
 
 
心が川上で、身体が川下、だということは、次のような例を、考えてみれば、直ぐに、わかることである。
 
例えば、
 
万引きをして、見つかって、警察にしょっ引かれ、「いや、私は、盗もうとは思ってなかったのですが、手が勝手に動いて、気が付いた時は、手が物を握って、バッグの中に入れていました」なって、言ったって、許してもらえるわけがないでしょ。
 
心が、「欲しい」と思ったからこそ、足が、動き、手が、動いたんだよ。
 
 
また、勝手に、会社をさぼって、翌日、上司に、「いや、会社に行こうと思って、家を出たんですが、気が付いたら、足が勝手に動いて、気が付いた時は、競馬場に来ていました」なんて、言いわけをしても、そんな言いわけ、通るわけがないでしょ。
 
心が、「今日は、会社に行くのは嫌だな、競馬場に行きたいな」と思ったからこそ、競馬場に行ったんだよ。
 
 
その他にも、心が主で、身体が、従という例は、数えればきりがないほど、それこそ、数、限りなくある。
 
例えば、
 
心に極度の恐怖感が生ずると、心臓は早鐘を打つように鼓動し、顔面は血の気を失って青くなり、声は震え呂律は回らなくなり、腰を抜かして、立っていることさえ、出来ない人もいる。
 
そして、天風先生の「真人生の探求」から、その例を引用すれば、
 
「人が消極的感情を発作すると、即座に、血液は、色及び味わいを変える。即ち、怒ると黒褐色に変色し、その味わいは渋くなり、悲しむと茶褐色となって苦みを呈し、怖れると淡紫色傾向となって、酸味を感じる。そして、特に注意すべき問題は、このように変味・変色した血液は一様に、健康保障に必要なアルカリ度を著しく減少して、酸性化するというのである。そして血液が酸性化した場合は、一体その結果はどうなるかというと肉体健康はたちまち忽ちその障害を受けて、何かの疾患に必ず犯されるに至る」
 
というのもある。
 
 
だから、心の病に、薬を使うのは、あたかも、川上が汚れている時、川下を一生懸命、掃除するようなものである。
 
 
心の病を、薬を使って治せるかのように思うのは、脳が動いて、心という現象が生まれる、という、間違った考え方によるものだよ。
 
現代医学は、目に見える、肌に感じる、つまり五感に感じることができる世界、つまり、物質しか取扱わないから、必然、心の働きも、脳という物質が働いて、心の作用が生じる、と考えざるを得なくなる。
 
 
だが、いくら、脳を調べてみたって、心というものがわかるものじゃない。
 
その証拠に、脳科学、というものは、昔から、ちっとも、進んでないでしょ。
 
 
脳を研究しています、なんて言うと、何か、我々には窺い知ることができないような、神秘の世界を知っている人かのように、思っている人もいるかもしれないが、
 
そして、脳科学者の中には、世の中のことは、何でも知っているかのような顔をして、したり顔で、人生のことまで説いたりしている奴もいるが、そういう人間の言うことを、決して真に受けてはならない、信用してはならない。
 
だって、方向性において、真理とは真逆のことをしながら、世の中の真理を掴もうたって、土台、初めから無理なことなんだよ。
 
それは、あたかも、森へ行って、魚を釣ろうとするようなものである。
 
 
繰り返えすが、「心の病は、心に、何かを施す以外、治す方法はない」。
 
つまり、心の病は、心そのものを変える以外に、他に、治す方法はないのだよ。
 
 
心を変える方法と言えば、昔から言われるのが、ヨガであり、禅である。
 
しかし、ヨガであっても、禅にしろ、現実の問題として、普通の人が、普通の生活をしながら、心を変えることは、至難のわざと言っていい。
 
 
それは、ヨガにしても、禅にしても、
 
心を変えるのに、「こうすれば、こうなる」と結論だけ言って、中間の、なぜそう言うのかということを、飛ばしてしまっているから、普通の人が、救われないのである。
 
 
つまり、どうして、そうしなければならないか、ということについて、説明してないから、事実として、ヨガでも、禅でも、現代人が救われてないのである。
 
結局、ヨガや禅では、家を捨て、妻子と別れ、山の中にこもらなければ、心は変えることはできない、ということになってしまう。
 
つまり、私たちのように、普通の生活をしていては、心を変えることはできない、ということになるのである。
 
 
このような、ヨガや禅など、従来の宗教のもつ欠点を克服し、こうすれば、普通の生活をしながら、心を変えることができることができると、その具体的方法を教えてくれているのが、中村天風先生の心身統一法というものである。
 
中村天風先生が、なぜ、このように、心を変える方法を具体的を、思いついたかと言うと、それは、心というものを、科学的・哲学的に解明することができたからである。
 
 
と言っても、天風先生にしても、心のことを全て、わかったわけではないが、
 
少なくても、考えなくてもいいことを、考えたり、思っちゃいけないと思いながら、思ってしまうのは、なぜか、ということについては、解明できた。(貴方達が、心の問題で苦しむのは、思っちゃいけないと思いながら、思ってしまうからでしょ)
 
そういうことが科学的・哲学的にわかった、つまり理論的に説明できるようになったから、思う通りにならない心を、変えるにはどうしたらいいか、という具体的な方法も、考え出すことが出来たのである。
 
 
私も、かつて、心の問題で随分苦しんだ、だから、天風会に入った。
 
天風会に入会して13年、天風会を脱会(入会金を払わなければ、会員でなくなる)してから、およそ10年になる。
 
もうこれで、大丈夫だ、何があっても、もう大丈夫だ、もう心の問題で苦しむことはない、と思い始めたのは、つい、2、3年前のことである。
 
 
ことほど左様に、心というものは、簡単に、変えられるものではない。
 
何十年とかかって、心の中に積み上げてきた悪習慣が、わずか、2年や3年で、簡単に切り替わる、と思ったら、とんでもない、間違いである。
 
 
貴方達も、天風会に入会したらよい。
 
入会して、2、3年間、基本的な動作を覚えたら、後は、日常の生活の中に、それを取り入れ、日々、実行したらよい。
 
 
少なくても、天風先生を、ちょっと齧ったくらいで、心というものは、そんなに、簡単に変わるものではないこと、肝に銘じておくべきである。
 
 
だが、この天風先生の方法というのは、日々、営々、倦まず弛まず、続けていさえすれば、いつかは、「これが、信念というものか」、ということが、自然に、わかるようにできている。

神人冥合と悟り

$
0
0
ここで、神とは、気が充満した、即ち、気しか存在しない世界のことを、言う。
 
このことを、禅などでは、空の世界、とか絶対の世界とか言う。
 
 
神人冥合とは、読んで字の如く、神と人が合体融合することである。
 
神(空の世界)と一体となる(冥合)には、その前に、神の世界と繋がらなければならない。
 
繋がった時に、聞こえてくるのが、天風先生が言っている、「天の声」(空の声とも言う)なんだよ。
 
 
今でも、私には、脳の中で、シーンとかジーンとかいって、しきりに、聞こえる音がある。
 
どこにいても、何をしていても、聞こえてくる。
 
これは、神の世界と繋がった時、神の世界から「気」が人間の命の中に入って来る音だと、私は思っている。
 
 
だから、いくら天風先生の本を勉強しようと、又、天風会で何年修行をしようと、これが(天の声)が聞こえてこないことにはどうしようもない。
 
どうしようもないとは、次に進まない、と言うことなんだ。
 
次に進まないとは、この音が聞こえきて、神人冥合が果たせなかったら、これから、何年修行を積もうが、この先見込みはない、と言うことである。
 
 
だから、天風先生の心身統一法は、ここが、スタートなんだよ。
 
つまり、天風先生が、インドの山奥で、当時、死病とまで言われた、奔馬性肺結核を完全に治し得たのも、天の声(空の声)が聞こえ、神人冥合を果たせたからなんだよ。
 
 
そういう意味では、天の声が聞こえなくて、つまり、気がわからない人は、天風先生を語る資格はないと言うことになる。
 
ということは、天の声が聞こえて、神人冥合が果たせるようになったら、今にも死にそうな、医者が匙を投げたような難病の人でも、治る、と言うことである。
 
 
難しい肉体の病(難病)を抱えたり、長年、心の病で苦しんだりしている人の中には、天風先生を勉強している人も多い。
 
いくら勉強したって、観念の中だけで、心を明るく、朗らかに、つまり、心を積極的にしようと努力したら、それだけで、難しい病気が、治るように思ったら、大間違いなんだよ。
 
 
心を明るく、朗らかに、活き活きとして勇ましく、つまり、心を積極的にして、思うこと、考えることは、明るく、楽しいことばかり考えていたら、病気が治ったり、運命が良くなったり、すると思い込んでいたら、それは、とんでもない間違いなんだよ。
 
そういうことは、あくまでも、神人冥合を果たせるようになる為の、一過程(プロセス)であって、それが目的ではないんだよ。
 
つまり、いくら、心を積極的に保って、将来のことを、明るく、楽しいことばっかり考えたって、空の声が聞こえて、神人冥合を果たせなかったら、健康も、運命もよくなることはないんだよ。
 
 
だから、天風先生も、「叡智の響き」という本の中で、こういう態度を、「かまとと式」と言って、次のように戒めている。
 
「そういう心の持ち方をする人は、いつも自分の心に快適を感じないことには、全く、交渉するのを避けて、自分の気分に適合するものだけを相手とするという、わがまま以上の、贅沢な心理状態で厳しい人生に活きようとする。しかし、こうした活き方は、真理の上から、厳格に言えば、正しい人間の活き方ではない。」(こういう、かまととが多いんじゃないか)
 
 
ずれにしても、健康であれ、運命であれ、先ず、天の声が聞こえて、神人冥合が果たせないことには、どうしようもない。
 
このことは、天風先生が、「成功の実現」という本の中で次のように言っていることで、わかる。
 
カリアッパ先生「だから、肉体の病は肉体のものにして、心にまで迷惑をかけるな。心に迷惑をかけたくなけりゃ、時にふれ、折にふれて、心に天の声を聞かせるようにしろ。つまり、声なき声のあるところこそ、心の本当の安らぎの場所だ。たまには心を休めてやれ。そこに心を休ませてやると、いっさいの迷惑が心にかからない。すると心はすぐに本然の力が命のなかで働き出すようにしてくれる。わかったか」
 
カリアッパさんは、「わかったか」と言っているが、殆どの読者の方が、おそらく、最後の「心はすぐに本然の力が命のなかで働き出すようにしてくれる。」という箇所はわからないでしょ。
 
私は、ここは、「心が、空の世界に入ると、何も考えなくなるから、そうすると、自然に、空の世界から、「気」がふんだんに入って来るようになる、従って、健康も運命もよくなる」と言う風に解釈している。
 
 
「成功の実現」の中から、続ける。
 
「私、ここにきて、涙がボロボロ出たんだ。ああ、外国の大学まで出て、しかも成績が首席で、こんなありがたいことがわからずに今まで来た。なんて俺はたわけの大馬鹿だったろう。そのたわけの大馬鹿でも天はやっぱり救ってくださろうとして、今月・今日、ただいまこの時、この人の(カリアッパさん)口からこういう尊いことを、私の心にささやかれるのかと思ったら、涙がボロボロ出たんだ。」
 
「それ以後は、心を、ただ天の声と同化させることだけを、折あるごとに、時あるごとにやった。
とにかく、私が今日あるをいたした命の転換、パーッと命のなかのすべてが取り替えられた、いわゆる命のコンバージョン(転換)は、静かに考えてみると、まさにこの心の持ち方、現代語で言うと、現実に心機の転換を行えるようになってから以後です。」
 
 
天風先生の心身統一法の目的は、どんなに暗くて悲しい出来事に出会っても、瞬時に心を明るく朗らかになるように出来ること、つまり、心機の転換が、その目的でしょ。
 
天風先生が、ここで、言いたいことは、自分の心身統一法の原点はここにある、ということである。
 
 
つまり、天風先生が、安定打坐と言われる瞑想法を考え付いたのも、観念要素の更改法という、潜在意識の中をきれいにする、画期的な方法を思いついたのも、
 
この時、ヒマラヤの山奥で、天の声が聞こえるようになって、そして、神人冥合(つまり、心を声なき声のある所に心を入れてやること)ができるようになり、心機の転換が行えるようになったからでしょ。
 
心身統一法とは、その後、日本に帰って来て、普通の人が、普通の生活をしながら、心機の転換ができるようにするには、どうしたらいいか、と思って、考えだされたものでしょ。
 
 
悟ったと言っても、辛い、悲しい、怖ろしい、といった感情や、熱い、痛い、といった感覚がなくなるわけじゃない。
 
ただ、そういう人は、そういう感情や感覚が起きても、瞬時に、それを、積極的な方向へと心を切り替えることができるだけのことである。
 
 
と言うことからすれば、天の声(空の声ともいう)が聞こえ、神人冥合が自由にできるようになったら、
 
そういう人は、既に、真人(悟った人を言う)への階段を、一歩足を踏み出した、と言えるんじゃないのかなあ。

製薬会社から多額の寄付金

$
0
0
10月23日(火)の読売新聞一面は、2012年度、製薬業界から、国内の医師や医療機関に提供された資金の総額は、4700億円を超えた、と報じている。
 
しかも、国の医療分野の研究開発予算は1700億円(国の予算の約2.7倍)しかないにもかかわらず、である。
 
 
この記事を見て、私は、直ぐに、近藤誠さんの「医者に殺されない47の心得」のことを思い出した。
 
 
近藤さんは、この本には、「血圧が130で、病気なんかありえない」というタイトルで、次のように言っている。
 
「高血圧患者が4千万人、高コレストロール血症(高脂血症)3千万人……。日本には大変な数の『病人』がいることになっています。
高血圧や高コレストロール血症の『基準値』と呼ばれるものがあります。『これ以上になったら病気』と診断する数値です。
血圧なら上140㎜Hg、下が90が基準値で、それは以上は高血圧症とされます。
この基準値がまず、まったくあてにならない。(この基準値は)病気ごとの専門学会が作っていますが、談合体質で、根拠なく数値が決められています。特に、高血圧の基準値『操作』は目に余ります。
1998年の厚生省全国調査の基準値は160/95以上でした。ところが2000年に、はっきりした理由もなく140/90に引き下げられました。
98年の基準値を当てはめると、高血圧の日本人は1600万人、それが新基準では、3700万人(約2.3倍)もの人が高血圧になってしまいました。
さらに、2008年に始まったメタボ健診では、19~64歳までで、糖尿病や腎臓病を合併している場合、ついに血圧130/80以上が治療目標になりました。」
 
「その結果、製薬業界はホクホクです1988年の国内の降圧剤の売り上げはおよそ2千億円だったのが、2008年には1兆円を超えています。
基準値をササッといじって、薬の売り上げ6倍増。血圧商法、大成功です。
また基準値作成委員会の多くが、製薬会社から巨額の寄付金を受け取っているのも問題です。たとえば2005年に作成された、高血圧の基準も含む日本版メタボ診断基準の作成委員会メンバー。その内の国公立大の医師11人全員に、2002~2004年の3年間の間に高血圧などの治療薬メーカーから合計14億円もの寄付金が渡っています。」と。
 
 
今回の読売新聞の記事は、近藤誠さんの主張の裏付ける、明確な資料ともなるから、新聞記事を、そのまま、次に引いておく。
 
 
「(2012年に製薬業から医師や医療機関に渡った資金、4700億円のうち)項目別で最も多かったのは、研究・開発費で計2438億円。その4分の3は、薬の承認を得る為に行う治験等の臨床試験費(1840億円)だった。
寄付金などの学術研究助成費は計532億円。うち、指定した研究者が自由に使える奨学寄付金は340億円、研究者を指定せずに大学などに提供する一般寄付金は84億円だった。
ディオバン(血圧降下剤)問題では、臨床研究の事実上の見返りとして、販売元のノバルチィスファーマから多額の奨学寄附金(研究者が自由に使えるお金)が支払われていた。」
 
これらの、いわゆる使途不明の闇資金が、国家予算の約2.7倍のもあった、ということには驚きだが、更に、驚かされるというより、あきれたのは、これらの金額が、実際の金額のごく一部に過ぎない、と思われることである。
 
 
それは、新聞記事の中の次のような部分から、そのことが窺える。
 
「情報公開は、製薬協会が一昨年策定した指針(自主規制)に基づき、各会社がホームページで自主的に実施しているもので、米国のような法律による基づくものではない。
公開はようやく始まったものの、その方法は利用者にとって極めて不親切な形になっている。」
 
 
本の中で、「高血圧の診断基準を決める医師に、高血圧の製薬会社から多額の寄付金が渡っている」と言っているのは、今にして思えば、近藤さんは、製薬会社とは、かのノバルチィスファーマのことを言いたかったのかもしれない、と思ったりしている。
 
また、読売新聞も、「こうした資金で医師の判断や研究が企業に有利な形に変われば、国民の健康や医療保険財政に悪影響を及ぼす恐れがある」などと、暢気なことを言っているが、
 
 
このように、お医者さんや研究者たちへ、研究費の名目で、膨大な資金が、渡っていたとしたら、近藤さんが言うように、製薬会社の有利なように診断基準を変えることなど、朝飯前で、
 
副作用などによって、患者がどうなろうと、お金をくれる会社の薬を、優先的に使おうとするのは、医者ならずとも、人情としても、当たり前のことだろう、とも思う。
 
 
近藤さんが、本で、高血圧の診断基準を定める医師11人全員に、高血圧の製薬会社から多額の寄付金があった、と言った時、使った資料は、2002~2004年のもの。
 
今から、およそ10年も前のことである。
 
 
このように、国も、マスコミも、動きが極端に鈍いのは、薬や医療のこととなると、専門的過ぎて、よくわからないから、そのままにして放置しておいたか。
 
それとも、大きな汚職事件にも匹敵するような、多額の闇資金が動いても、お医者さんや製薬会社というのは、良心的な人たちばかりだから、不道徳なことはしない、悪いことはしない、思い込んでいるのだろうか。
 
それにしても、私たちのような素人には、お医者さんの世界というのは、まったく、想像もつかない、闇世界である。
 
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
遠隔を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、遠隔治療は、希望者が多いため、キャンセル待ちの状態です。

お医者さんは病気を治せない

$
0
0
私も、今年の2月で70歳、古希を迎えた。
 
きわめて健康で、ここ数十年、病院など行ったことがない。
 
特に、「気」に目覚めてからは、つまり、最近10年間くらいは、「年をとって、体力が落ちた」などと思ったことは、一度もない。
 
 
このように、元気で、日頃から、「医者は病気を治せない、だから、私が、病気になっても、病院で、延命治療などしないでくれ」などと、言っているものだから、心配になったのだろう。
 
妻が、病院に行きたくないのなら、その旨、紙に書いてほしい、と言うから、
 
自分のことはどうなってもいいが、万が一、私に何かがあって、後に残ったものを困らせたらいけない、と考えたから、先日、リビングウィルなるものを、初めて、書いた。
 
 
その際、どこかにサンプルはないかと思って、思いを巡らせていると、慶応大学の近藤誠先生の「医者に殺されない47の心得」の巻末に、あったことを思い出して、それを参考にリビングウィルを書いたのだが、
 
その時、この本を、改めて、読み直してみて、実は、先生は、この本で、「医者は病気を治せない」ということは、言いたかったのだろう、ということに気が付いた。
 
そして、病気を治せないのに、治せるがごとく、振る舞って、無理に薬や手術して、副作用や後遺症によって、患者を苦しめている、自分の仲間たちを許せなかったのだろう。
 
 
そう思って、読んでいると、いたるところで、先生は「医者は病気を治せない」と言っている。即ち、
 
「風邪薬も抗がん剤も、病気を治せない。
医者は本当にあなたの病気を防いだり、治したりしているでしょうか。医者の僕が言うのも何ですが、答えはノーです。風邪、頭痛、高血圧、高コレステロール症(高脂血症)、不整脈、がん……。病気の9割は、医者にかかったからといって治るわけでもないし、回復が早くなるわけでもありません。そして、副作用や後遺症のリスクはとても大きい。」とか、
 
「老化と病気を区別せよ。
僕も医者ですが、ここ数十年、骨折と勘違いした時以外は、病院で診察や診療を受けたことがなく、薬も歯の痛み止め以外、飲んだことがありません。なぜなら、今の日本で大人がかかる病気はたいてい『老化現象』で医者にかかったり、薬を飲んだりして治せるものではないからです。」とか
 
「信じる者は、救われない
医者を40年やってきた僕が、いちばん自信をもって言えること。それは『病院によく行く人ほど、薬や治療で命を縮めやすい』ということです。
(途中略)
薬のほとんどに病気を治す力はないのに、副作用は大きい。
(途中略)
僕自身、医者になりたてのときは、たとえばがんは、手術や抗がん剤で『治る』と信じ込んでいました。でも、さまざまな患者さんを観察するうちに、『臓器を切り取っても癌は治らないし、抗がん剤で苦しくだけなのでは』と気づきました。
信じる者は救われる、と言いますが、医療については『信じず、合理的に考える』ことがとても大事です。」とか、
 
「風邪薬は、風邪に効かない。薬害でこんなに死んでいる。
よく『風邪を治す薬を発明したらノーベル賞もの』と言われます。風邪のウィルスは200種類もあり、DNA(遺伝子情報)も変化しやすい。今、はやり始めた風邪のウィルスのDNAを解析するだけで日数がかかり、ようやく薬が完成したとしても、既にウィルスの遺伝子が異変しているから効かないのです。
では、市販の風邪薬(総合感冒薬)や医者がくれる薬は?
すべて、『症状を一時的にやわらげる』薬です。
(途中略)
風邪をひくと、体はセキや鼻水によってウィルスやその死骸を追い出し、体温を上げて外敵と闘う白血球を活発に働かせようとします。せっかくのセキや熱を薬でおさえたら、病気との闘いに水をさすことになります。ウィルスは体に居座り、なかなか治りません。」とか、
 
「逸見正孝さんが教えてくれたこと。
よく『切ると癌が暴れる』と言われます。メスが入って正常組織のバリアーが崩れたところに、隠れていた癌細胞が入りこんで増殖しやすくなるんです。それに、今ある癌をいくら大きく切り取っても、本物の癌なら見つかるはるか前に、あちこちに転移しているので、癌は消えません。
また抗がん剤は、猛毒です。抗がん剤が『効く』というのは、単に『がんのしこりを一時的に小さくする』という意味です。そのしこしりは(しばらくすると)必ずまた大きくなります。つまり、『効く』というのは、治すとか延命につながる話ではないんです。」
 
 
これは、「医者は病気を治せない」という話の部類には入らないかもしれないが、なぜ医者は「治せない」と知りながら、薬を使ったり、手術をしたりするか、といった理由にはなると思います。
 
「医者だってビジネスで、医者にも生活があります。日本の医者は病人をできるだけ増やして、病院に通わせないとやっていけないのです。」と彼は言っています。
 
 
医者が病気を治せないとしたら、病気になったら、どうしたらいいのか、ということについて、彼は「ほっときゃ治る」と言って、次のように言います。
 
「『病気の80%は医者にかかる必要がない。かかった方がいいのが10%強、かかったために悪い結果になったのが10%弱』という言葉がありますが、正に至言。
基本的に少々の痛みや不自由は『ほっときゃ治る』と放置して、どうしても日常生活にさしつかえる症状があったときだけ、病院に行く。本当に手術や入院が必要なのか、あらゆる情報を調べてから踏み切る。そう心がけると、人生終盤を有意義に過ごせます。」と。
 
 
私のこのブログを見た人の中には、「近藤さんというお医者さんは、出来が悪いため、出世する見込みもなく、落ちこぼれて、イジメられていて、その劣等感から、仲間の悪口を言っているのだ。」と思っている人がいませんか?
 
そうじゃないんですよ。私は、彼が言っていることは、100%正しい、と思っています。
 
 
おそらく、経験を積んだベテランのお医者さんほど、自分達、医者は病気を治せない、ということを知っているはずなんです。
 
彼以外のお医者さんは、そのことを、知っていながら、そんなことを言えば、仲間外れにされたり、自分たちがおまんまんの食い上げになったりするから、黙って口にチャックをしているだけなんです。
 
 
そういうことからしたら、近藤先生というのは、優秀な、勇気ある、お医者さんの中の、お医者さん、と言ってもいいでしょう。
 
今、彼は、医学界では、異端児のように言われていますが、きっと、近い将来、彼の言っていることが常識となり、そのうち、文化勲章でも貰うような偉い人になるかもしれません。
 
 
ただ、彼のことで、非常に残念に思うのは、彼は、このように、先見性と勇気をもった優秀なお医者さんには違いないが、知識・見識という点において、現代医学の範疇から一歩も出てないことです。
 
つまり、他のお医者さんたちと、大した違いはないのです。
 
 
違いがないから、「現代医学は病気を治せない」と言いながら、ではどうしたらいいかと聞かれると、「ほっときゃ治る」などと、無責任なことしか言えないのです。
 
「ほっときゃ治る」と言われたって、たとえば、癌を宣告されて、『ほっときゃ治る』とばかり、泰然自若、慌てず騒がず、なんて人は、千人に一人、否、万人に一人、よっぽど腹のできた人でないと、出来ることじゃないでしょう。
 
出来ないことを言われたって、普通の人にとっては、何の役にも立たない、へのツッパリにもならないような話、と言われたってしょうがないでしょう。
 
 
さらに、彼の致命的欠点とも言うべきは、彼は、「現代医学は病気を治せない」と言いながら、それでは、なぜ現代医学は病気を治せないのか、ということについて、つまり、治せない理由については、全く、言及してなのです。
 
 
なぜ、彼は、その理由を言うことができないのか?
 
直截に言えば、それは、「なぜ人間の命が生きているのか」という、命に関する根本的なことがわかってないからなんです。
 
つまり、命がどうして生きていられるか、ということがわかっていないから、
 
「現代医学は病気を治せない」と言いながら、さて、では、どうしたら病気を治すことができるか、ということを言えなくて、結局、「ほっときゃいい」なんて、無責任なこと、言わざるを得なくなるのです。
 
 
近藤さんと違って、私は、昔からお医者さんが治せなくて、今でも治すことができない、風邪を始めとして、喘息、神経痛など簡単に治すことができます。
 
高血圧や、糖尿病などは勿論のこと、癌なども、末期になって、既に寿命が来た人以外は、治すことができます。
 
また、難病と言われれる、リュウマチ、アトピー、膠原病、メニエール、突発性難聴、などの病気も、現に治してきましたし、
 
他の、どんな病気だって、治る原理は、皆、一緒だから、どんな難病だって、治すことができます。
 
 
近藤さんを初めとして、現代医学のお医者さんが、病気を治せないのは、人間の命というものは、「気」によって支えられ、保たれているということを知らないからです。
 
 
「気」は神経系統を流れて、私たちの命を保ってくれています。
 
だから、病気というのは、「気」の流れが悪くなった場所に発生するのです。
 
流れが悪くなった神経は炎症を起こします。
 
サイ気療では、炎症を起こした神経を探し、指で触って、そこの滞った「気」を流すことによってあらゆる病気を治しているのです。
 
 
難病という難病、全て、神経の炎症が原因となっている。
 
その証拠に、難病と言えば、現代医学では、全て、神経の炎症を抑える、ステロイドを使うじゃないですか。
 
言ってしまえば、現代医学が、難病を治せないのは、神経の炎症を止められないから、治せないんですよ。
 
 
神経の炎症は、「気」しか治せるものは、ないんです。
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
遠隔を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、遠隔治療は、希望者が多いため、キャンセル待ちの状態です。

異端

$
0
0
慶応大学の近藤誠先生は、医学業界にあって、異端、とされている、と聞く。
 
何をもって異端と言うのかわからないが、
 
時代を先取りしたような偉大な仕事をしたり、世紀の大発見をしたような発明家たちは、皆、当時は、異端と呼ばれたことからすれば、
 
異端とは、近未来、絶大な賞賛を浴びるような、偉大な仕事を成し遂げる可能性のある人、或いは、主張をする人、と解してもいいかもしれない。
 
 
一方、現在、組織の中で、長とか権威などと呼ばれているような人たちは、皆、出世願望の強い、現状維持派、つまり、ことなかれ主義の人たちばかりだから、(そうしないと出世できない)
 
生前、どんなに偉いと言われた人でも、死んだりすると、たちまち、生きている間の業績は何だったのか、ということは勿論のこと、本人の名前さえ、数年のうちに、忘れ去られてしまうようなことが多い。
 
つまり、その人の死後も、時代を超えて、いつまでも、賞賛され、尊敬されるような偉大な発明や仕事を成し遂げたような人たちは、皆、異端の中から生まれている、と言えるのである。
 
 
なぜなら、異端、と言われているそのこと自体が、その人の、才能の豊かさを表しているからである。
 
そのことを荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、才能のある人は、一癖も二癖もある、といって次のように言っている。
 
「人材は必ず、一癖(くせ)あるものなり、器材(才能がある)なるが故なり、癖を捨てるべからず」と。
 
 
だから荻生先生は、また、組織の長というものは、「上にある者は、下のものと才智を争うべからず」と言うのである。
 
このことは、仕事のことで、下の者と才能争いをするような人を、組織のトップにしてはいけない、という意味でもある。
 
 
しかし、得てして、組織というものは、才能があって実績を積んだような人が、トップに立つ就くことが多いから、会社の将来を間違うのである。
 
つまり、人格があって、なお且つ、才能や実績がある人がトップに就くならいいが、得てして、人格がなくて、才能や実績だけが突出した者が、トップになるから、組織が衰えて行くのである。
 
 
なぜなら、実績や才能を自慢にしているような者は、下の部下や同僚たちと才能争いをするからである。
 
才能争いをして、相手に打ち勝たんとして、部下や同僚を、排斥したり、潰したりするのである。
 
そして、悪いことには、トップから、目の敵にされて、排斥されたり潰されたりする同僚や部下たちは、有能な人が多いのである。
 
 
だから、才能や実績が豊富で、人格に乏しい(大体、才能も人格も、両方優れている人は、稀)者が、トップに就くと、
 
クセの強い、才能ある異端を潰してしまうか、先に、そういう人達の方から逃げ出してしまい、結局、残るのは、ゴマすりのうまい、現状維持の、出世主義者ばかりになるから、時代に取り残されて、業績が落ちたり、会社が潰れたりするのである。
 
 
近藤先生は、自著「医者に殺されない47心得」の中で、「(自分が勤めてる所は)『大学病院の外来なのに、がんの治療をしない』という、ある意味、奇跡的なことをここまで続けてこられたのは、慶應義塾の「自由」「独立自尊」の精神のおかげと、感謝しています」と言っている。
 
要は、彼は、自分が「患者よ、がんと闘うな」とか、「47の心得」とか、自分がくびにならずに、ここまで勝手なことをしてこれたのは、福沢諭吉の建学精神である「異端を許す」組織風土があったからだ、と言うのである。
 
近藤先生のこの発言の中には、他所(他の医療機関)だったら、とっくにくびになっているはず、という意味も込められている、ように思う。
 
 
話は変わるが、昨今、食品の食品偽装問題や、みずほ銀行の暴力団員に対する融資問題が、新聞紙上を賑わしている。
 
これなど、内部に近藤先生のような異端がいなかったからであり、
 
悪いことと知りながら、うちうちで、なあなあで、やっているうちに、完全に、時代の流れから遅れてしまった、ためである。
 
 
つまり、みずほ銀行にしろ、食品偽装をした食品会社にしろ、世間(消費者)の目が、以前より厳しくなっているかかわらず、従来のやり方をそのまま、踏襲してきたからである。
 
このことを、反対から言えば、10年前、20年前なら、許されたろうに、ということにもなる。
 
 
これらとは比較にならないぐらい、医療業界と、製薬会社の癒着は、重大で、深刻である。
 
即ち、医療業界と製薬会社の癒着は、闇の中で、莫大な金銭が動いている事は別にしても、そのしわ寄せが、全て、一般消費者の方に来て、多くの人の健康が阻害されいるだけに、より一層、性質(たち)が悪い、つまり悪質なのである。
 
 
近藤先生は、おそらく、医療業界という内部にあって、良心の呵責に、耐えられなくてあのような本を書いたのだろう。
 
この問題は、遅かれ早かれ、いずれ、見えざる大きな手によって、大手術がなされて、内部の膿(うみ)が出し尽くされることになるだろうとは思うが、
 
その時、本人の意図とは違って、10年先、20年先、あるいは、近藤先生は、医療業界初の内部告発者として、評価を受けるようになるのかもしれない。
 
 
その時が来たら、先生は、菊池寛賞どころか、今度は、文化勲章(のような大きな勲章)?ものだと、私は、ひそかに信じている。
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
遠隔を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、遠隔治療は、希望者が多いため、キャンセル待ちの状態です。
Viewing all 274 articles
Browse latest View live