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Channel: 気と心と宇宙法則
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病気を治す方法

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最近、以前のように、瞑想に執念を燃やさなくなった。
 
ということは、以前は、「瞑想・命」とばかり、シャカリキになって、瞑想していたことにもなる。
 
さらに、言葉を繋げば、以前は、わずか、朝の1時間から2時間の瞑想の時間に、その日一日の目標を定め、その時間に、全エネルギーを集中して、注ぎ込んでいた、ということになる。
 
 
なぜ、そんなにシャカリキになって、瞑想していたかというと、「信念」が欲しかったからである。
 
「信念」を啓発して、心の安心立命が欲しかったからである。
 
ということは、裏を返せば、以前は、それほど雑念妄念が多くて、苦しんでいた、ということにもなる。
 
 
天風先生は、その本で、「ああ、俺も信念が出てきたなあ」なんて思っている間は、「まだ、まだ(未熟という意味)」なんだよ、と言っている。
 
ということは、信念が出てきたら、信念のことなんか、思わなくなるということでもある。
 
このことを、言い方を変えるなら、信念が強くなったら、信念なんで、どうでもよくなる、ということである。
 
つまり、「信念!信念!」なんて、思わなくなる、ということである。
 
「信念!信念!」とシャカリキになるのは、信念が出てないからである。
 
 
最近「信念!信念!」と信念を追い掛け回さなくなくなったのは、瞑想が苦痛でなくなったせいもある。
 
瞑想が苦痛でなくなったのは、簡単に、無念無想に、なれるようになったからである。
 
 
最近は、無理に、雑念妄念を排除して、無念無想になろうと、四苦八苦、努力することは、全くなくなった。
 
座ってさえいれば、いつか無念無想、三昧になれる、と思うからである。
 
 
事実、座りさえすれば、(或いは、座らなくても、そうなのかもしれないが)自然に空の世界と繋がって、つまり、神人冥合して、無念無想になれるのである。
 
ということからしたら、無念無想とは、心の中の雑念妄念を排除することではなくて、神人冥合、空の世界と繋がることなのかもしれない。
 
 
空の世界と繋がりさえすれば、空の世界から、新鮮な「気」がふんだんに降りて来て、その「気」が心の中を十分に満たせば、自然に雑念妄念は排除され、無念無想になるのである。
 
だから、最近は、ただ座って、空の世界から、気が降りて来て、その気で、心の中が一杯に満たされる時を待っているだけである。
 
 
私は、ゲストブックの中で、「難病、難病と言って、一生治らない病の如く、慌てふためくのは、貴方達だって、勉強が足りないからだよ」と言っているが、
 
大病を患って、一生、治らない病の如く、慌てふためいたりするのは、貴方達が、病気を治す方法を知らないからだろ。
 
勿論、医者も、その方法を知らないから、貴方の病気を治すことができない。
 
 
神人冥合して、無念無想になって、空の世界から、ふんだんに「気」が、貴方の身体の中に降りてくるようになると、どんな病気だって、治るんだよ。
 
だって、この「気」が貴方の命を保ってくれているんだもん。
 
雑念妄念に邪魔されて、「気」が、心の中に、わずかしか入ってこなくなっているから病気になってるんだよ。
 
 
大病を患って、どっかに良い医者いないかしら、とか、漢方が効きやしないか、或いは、サプリメントがいいかしら、なんて考えている人は、恥ずかしいと思いなさい。
 
なぜなら、それは、くだらない雑念妄念が、心の中を走り回っているという、確かな証拠のようなものだもの。
 
 
難病で苦しんでいる人たちよ、貴方の病気を、本当に治せるものは、この世に、「気」以外ないんだよ。
 
 
 
お 知 ら せ
 
1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
                                                           
3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話での申し込み、お問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
無料体験を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、電話による遠隔治療は、希望者多数のため、キャンセル待ちの状態にあります。

尖閣問題

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今日(11月4日)の読売新聞は、前日、中国海警局の公船「海警」2隻が、沖縄県石垣島の尖閣諸島久場島沖の接続水域を航行していると、報じている。
 
わが国が、尖閣諸島3島を、国有化して以来、同水域では、中国公船による領海侵犯が頻繁に繰り返され、わが国海上保安庁の巡視船との間で、緊張が高まっている。
 
 
表面から見る限り、今にも、軍事衝突が起きかねないような、深刻な状況のように見えるが、現実は、必ずしも、そうではなさそうである。
 
 
1ケ月前だったか、或いは、それ以前だった、しかとは、思い出せないが、読売新聞の記事で、中国側の船の乗組員の志気が、著しく低いことを知ったからである。
 
その記事によると、海警とか海監とかいった中国側の公船の乗組員達は、「なんで、いつまで、こんなばかげたことを、しなきゃならならないんだ」と思っているらしい。
 
 
新聞社が、どこで、どうして、この中国側の情報を掴んだのか知らないが、大新聞が、一面の特集記事の中で、そういうことを言うからには、かなり信憑性の高いものと思っていいのだろう。
 
その記事は、「そうであるなら、むしろ、我が国とっては、長期戦の方が、有利になるかもしれない」と結んでいた。
 
「長期戦の方が有利」とは、相手の方が、根負けして、そのうち、あきらめて、引くかもしれない、という意味ではないか、と受け取った。
 
 
私も、これまでは、いまに、戦争になるんじゃないかと、心配していたから、この話に、大いに安堵の思いをしたものだが、
 
思い返してみれば、今回の尖閣の問題に限らず、中国という国は、歴史的に、そういう国ではないか、とも思える。
 
 
つまり、本音と建て前が、違う国、と考えてよさそうである。
 
それに、あの国は、現在、共産党一党独裁、専制政治の国であり、
 
国民は、何事も、上意下達、上の命令で動いていることを考えれば、尖閣の海で働く中国の船員たちの、あのような、投げやりな気持ちも、よく理解できるような気がする。
 
 
そのように思って、あの国の指導者たちの言動を眺めると、彼らの本音が、はっきり見えてくるような気がする。
 
つまり、彼らが、言ったりしたりしていることを、そのまま、真(ま)に、受け取ってはいけない、ということなのだよ。

私の基本方針

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私の鹿児島の事務所に来て、直接、私の治療を受けた人は、よくご存じのことと思うが、最初、「施療願い」というものを書かされる。
 
その中の文言に、「『私の基本方針』」と『サイ気療を希望される方へ』に同意し」、とあるが、これは、いわば、「施療のお願い」と、私のやり方(「私の基本方針」)に対する、同意書、ともいうべきものである。
 
 
患者の中には、余命数ヶ月という人もいるから、亡くなった時、全ての責任を、一人で背負うことがないように、という保身の意味もあるが、一方、私の所に来たら、決して、「客顔(ずら)」させないよ、という意味もある。
 
威張るつもりはないが、過去、患者の中には、これ見よしがに、札束をちらつかせたり、社会的な地位を鼻にかけて、何様かのように振る舞おうとする、不愉快な人がいたことも事実である。
 
中で、「常識と礼儀を弁えない人は、治療をお断りすることがある」としたのは、こういう人達に対する警告であり、そして、気持ちよく仕事をしたいという、私の切なる願いでもある。
 
 
この度、これまでの「私の基本方針」と「サイ気療を希望される方へ」という二つの文書を、次のような一本の文書に、まとめました。
 
これから新しくサイ気療に来られる方は、最初(初回のみ)、この新しい文書、「私の基本方針」に対し、同意を求められるのは、勿論のことである。
 
 
 
私  の  基  本  方  針
患者  各位
サイ気療研究会 代表 鎌田 毅成
 
1、私は、お金で、仕事はしません。だから、この人はお金持ちだとか、社会的な地位のある人だとか、だれそれの紹介、ということで、特別扱いすることは、一切ありません。
2、私は、「患者様」などと言って、病人を、ことさら甘やかすようなことはしません。
3、病人と雖も、常識と礼儀を弁えない人は、治療をお断りすることがあります。私にも、患者を選ぶ権利があります。
4、サイ気療は、一回、治療を受けただけで、自覚症状によって、今後よくなるかどうか、自分で判断できます。
5、従って、治療を、週、何回にするか、自分で判断して、予約して下さい。ただし、相談があった場合、アドバイスすることはあります。
6、サイ気療は、薬と違って、副作用は全くありません。従って、治療中、或いは治療後、いかなる症状が表れようとも、こちらは、一切、責任を負いません。
7.サイ気療は原則、私が、患者の肌に(神経)触れて治します。この点、予め、ご了解をお願いしておきます。
8、私は検査道具を一切持ちません。だから、最終的に、病気が治ったか、治っていないか、或いは、どの程度治っているかは、病院の検査によるようにして下さい。
 
9、予約は次の要領に従って下さい。
    5回、月、火、水、木、金、午前11:00~18:00の間、治療を行います。(12:00~13:00の間昼休み)土、日、祝祭日は休業します。
    完全予約制になっていますので、治療を受けるには、予め日時の予約が必要です。
    施療時間は、一回30分単位で予約できますが、2回60分以上の予約も可能です。
    料金:ご芳志を頂いています。(ご相談に乗ります)
    予約及びキャンセルは、少なくても、前日までに済ませるようにして下さい。
    予約連絡先:090-3456-1098 鎌田
 
    ホームページアドレス:「サイ気療研究会」http://psykiryou.com
ブログアドレス:「気と心と宇宙法則」http://blogs.yahoo.co.jp/jngwk691 

口コミよりインターネット

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最近、私の所に、直接来て、サイ気療を受ける人は、
 
近くから、口コミで来る人よりも、東京、神奈川、埼玉といった関東地方や、大阪、神戸、奈良といった、遠方から、インターネットを見て来る人の方が多い。
 
 
一見すれば、情報伝達手段としては、インターネットよりも、口コミの方が優っているようにも見えるが、
 
こと、サイ気療に限って言えば、より正確な情報を伝える、という点で、口コミよりも、インターネットの方が、優っているように思う。
 
 
と言うのも、口コミだと、勧める人から、その人には「とにかく、行ってみなさい、とってもいいから」くらいの情報しか伝わってないが、
 
インターネットの場合、利用者は、徹底的に私のことを調べてから来る、という長所があるようだ。
 
 
その証拠、と言いっていいのかどうかわからないが、口コミの人の中には、電話してきて、「○○の病気ですが、治りますか?」というのは、まだいい方で、
 
「気で病気が治ると聞いたが、どうやって治すんですか?」なんて、疑わしそうな声で、聞いてくる人も、結構いる。
 
 
「治りますか?」と聞いてくる人には「やってみなければわかりません」と答えるし、
 
「気でどうやって?」などと聞いてくる人に対しては、私は、「貴方に勧めた人から、もっと詳しく聞いてから、改めて、電話しなさい」と答える。
 
 
別に、これは、いじわるで言っているのではなくて、私だって、見ず知らずの人から、電話で、病名を告げられただけで、
 
つまり、見もしない、触れもしない前に、治るかどうか訊かれたって、現実の問題として、答えるのは不可能だし、
 
つまり、そういう以外、他に方法がないから、そう言っているだけであり、
 
 
また、「気でどうやって病気を治すのか?」と聞かれても、短時間の間に、目に見えない「気」のことを説明するのは、至難の業だし、
 
それに、気で病気を治すなんて言ったって、直接、実際に自分で体験してみないことには、わからないと思うから、そう言わざるを得ないことになる。
 
 
反対にインターネット利用者の方は、電話やメールで問い合わせてくるにしても、もうその時には、十分、下調べが付いているから、初めから「予約をお願いしたいのですが」と言ってくる人が多い。
 
そうなると、疑わしげな声で電話してくる人と、インターネットで十分調べてくる人との間では、私との間の信頼感に、初めから、格段の差が付くことになる。
 
そして、このことは、その後、治療がスムーズに運ぶかどうか、つまり、治療の成否にとって、決め手となることが多い。
 
 
例えば、私たちは、家とか、冷蔵庫とか、テレビとか、大きな買い物をする時は、口コミだけでなく、パンフレットを見るとか、直接自分で店まで足を運んで、下調べをしてから、買うかどうかの決めることが多い。
 
ましてや、己の命を掛けた病気との闘いである。
 
信頼できる人から、口コミで知るのもいいが、同時に、他人任せではなく、自分で、納得するまで調べる、という態度が望ましいのではなかろうか。
 
 
とにかく、私のサイ気療の場合、患部の神経(つまり肌)に、直接、触れて治す。
 
その際、最も、大切なことは、お互いの信頼関係である。
 
この信頼関係が崩れた時、肌を触られる患者の方もイヤだと思うが、触る方の私も、「コンチクショー」などと思いながら、治療を続けるのは、苦痛以外の何物でもない。
 
 
だから、「とにかく、あそこは、いいから、行ってみなさい」と、口コミで来る人と、インターネットで、徹底的に調べて、そして、納得して来る人との間には、最初から、信頼関係という上で、大きな差がつくのである。

写真から気が出る

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私のブログの、ゲストブック欄に、大きな写真が掲げてあって、写真から気が出ているから、癒されてください、といった趣旨のことがあるのは、多くの方が、ご存じだと思う。
 
 
最近、メールやコメント欄を利用して、写真によって、実際に癒された旨、報告してきた人が相次いだ。
 
以前からも、そのような報告は、度々あって、
 
風の便りでも、秘かに、多くの人が、ブログの写真を利用している人がいることは、よく、承知している。
 
 
それにしても、写真から気が出るなんて、とても信じられない話だが、
 
私も、以前、実際に、ある人の写真から気が出ているのを感じ、そして、自分にも、その人と同じ能力が備わっていることを知ってから、ゲストブックにそう記したのであるが、
 
現実の話、自分で自分の写真から気を感ずることはない。
 
だから、写真のことは、報告があって初めて知ることになる。
 
 
似たような話で、パワースポットとか、パワーストーンとか、という話も時折耳にする。
 
私自身は、そういうものにあまり興味はないが、
 
土地や石から、気が出るということも、あながち、あり得ない話ではない、だろう、と思う。
 
 
神社など、パワースポットとして人気を集めている所もあるようだが、
 
神社があって、気が出ているのではなく、気が出ている場所に神社を建てた、と考えた方がいいかもしれない。
 
それに、お寺などでも、仏像が安置されていたり、仏様の、絵が飾られていたりするが、一部の人のように、偶像崇拝、無意味なものとして、一概に、全て、否定し去ることはできない、と思う。
 
あれも、仏像や絵から気が出ていて、現実に、お参りする人を癒しているから、遠くからでも人が、多くの人が集まって来る、と考えた方が素直かもしれない。
 
 
今朝も、午前6時から8時までの間、約8人の人を、電話で治療した。
 
電話が繋がっている間、私から、患者の方へ気が流れていて、それで病気が治るとは考えにくい話であるが、
 
現実、多くの人が、私の電話による遠隔治療によって、病気が治っているのは、まぎれもない事実である。
 
 
私たちは、自分の、浅はかな、限られた知識を基に、「こんなバカなことがあってたまるか!」などと思いがちであるが、
 
考える方法として大事なことは、それが事実かどうか、ということではないかと、思う。
 
 
偉大な発見や発明は、全て、厳然たる事実があって、知って、それを、どうやって他人にもわかってもらおうとする努力から生まれて来ている。
 
その事実を、「真理」である、と証明する手段方法として、科学があり、哲学があり、論理があるのではないかと思う。
 
 
現代人は、科学的でなかったり、論理的でなかったりすると、事実かどうかを確かめることもなく、直ぐ、「あり得ない」などと言って、否定するが、
 
それは、20世紀以降の、五感に感じられないものは存在しないとする、物質主義、唯物論に毒されてしまった結果だと思う。
 
言うならば、現代の、科学偏重教育の結果と言ってもいいだろう。
 
 
科学的な態度も、物質主義、唯物論も、学問としては、いいかもしれないが、それで、日々の生活が、快適で幸せに過ごせているなら、何も、言うことはないが、
 
現在、うつ病患者が、世界で3億5千万人、日本でも百万人の超える、と言われるのは、何を物語るものだろうか?
 
 
現代の、物質主義、科学偏重主義教育が、多くの人の人生を、狂わしてしまっている、としか言いようがない。
 
 
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1、サイ気療 休業日 変更について
従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
 
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3、遠隔治療無料体験について
 
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
 
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話での申し込み、お問い合わせ等はご遠慮下さい)
 
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
 
無料体験を受ける際の要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
 
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
 
現在、電話による遠隔治療は、希望者多数のため、キャンセル待ちの状態にあります。

難病の原因

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難病とは、「現代医学で、適当な治療法が見つからない病気のことを言う」、と定義するなら、
 
私は、「難病とは、神経の炎症が引き起こす病気」と言いたい。
 
つまり、「難病とは、現代医学で、神経の炎症を治すことができない病気のこと」、と言うことができる。
 
 
私が、難病と聞いて、先ず、心の中に浮かべる病気の名は、治療の経験から数えて、過敏性大腸炎、クローン病、ネフローゼ症候群、各種膠原病、パーキンソン病、メニエール症候群、筋ジストロフィー、全身性エリトマトーデス(SLE)などであるが、
 
現代医学が治せない、ということでは、昔からある、癌や、喘息や、花粉症や、アトピー、そして各種神経痛なども、難病と言ってもいいかもしれない。
 
なぜなら、これらの病気も、神経が炎症を起こしたために、なっている病気だからである。
 
 
上に挙げた難病も含めて、これらの病気に対して、現代医学は、殆ど、と言っていいほど、ステロイドを用いるが、
 
その、ステロイドとは、現在、唯一、神経の炎症を抑える効果がある薬だから、である。
 
従って、病院へ行って、病名を何とか言われて、医者から、ステロイドを使うことを勧められたら、それは、神経が炎症を起こして、なっている病気と思っていいだろう。
 
 
しかし、薬は全てそうだが、ステロイドも、神経の炎症を抑える効果はあっても、神経の炎症を治す力はない。
 
サロンパスと一緒で、薬効が切れたら、また、新たに、薬を投入しなければならない。
 
よく効く薬は、副作用も、又強い、と考えるのが常識である。
 
又、薬なら、どんな薬でも、使ううちに、身体の方に耐性が出来るから、ステロイドも、だんだん、強くして行かないと、効かなくなってくる。
 
 
薬を強くすれば、副作用も又、強くなるのは、当然のことである。
 
そのような、イタチごっこのようなことを繰り返しながら、ステロイドの副作用によって、他の臓器などが犯されて、遂には、本来の病気ではなく、薬の副作用によって、死を迎える、ということになる。
 
 
癌も、神経痛も、また、喘息も昔からある病気だが、現代医学は、未だに、これらの病気すら治すことができないでいる。
 
未来永劫にわたって、と言っていいだろう。
 
上に挙げたような難病も含めて、癌も神経痛も、喘息も、現代医学は治すことはできない、と私は確信する。
 
 
なぜなら、これらの神経が炎症を起こしてなる病気は、「気」が関係しているからである。
 
つまり、私たちの命というものは、神経を流れる「気」によって保たれているが、その気は神経を流れる「気」の分量が少なくなったり、滞ったりすると、神経は炎症を起こす。
 
だから、神経の炎症を止めて、病気を治す効果があるものは、「気」以外にないのである。
 
 
しかるに、現代医学は、私たちの五感に感じないものはない、ということを前提にして成り立っている学問である。
 
気というものが、五感に感じ取れるものならいいが、「気」は、決して、私たちの五感で感じることはできない。
 
なぜなら、気は、物質ではないからである。
 
私が、現代医学は、未来永劫にわたって、これら難病を治すことはできないだろう、と主張するこのような理由に基づくものである。
 
 
「事実は最後の証明者」と言うが、
 
私は、これらの難病を治し得た事実から、そう言っている。
 
 
難病を、全て、しかも、完璧に治し得た、とまでは言わないが、例えば、神経痛や、喘息ぐらいの病気は、たちどころに、治すことができる。
 
そして、どんな難病と謂えど、これまで、全く、効果がなかった、という例は、ただの一例もない。
 
 
病気が、完全に、治るか、治らないかは、その病気の軽重によるが、重い病気は、治すのに、それだけ長い時間を要することは、また、事実である。
 
だから、重い病気の人は、病気から完全に回復するには、それ相当の時間を要することを覚悟しなければならない。
 
 
私の所には、医者から、余命数ヶ月、と言われた患者も来る。
 
中には、既に、寿命が尽きている人もいるから、寿命の尽きた人は、サイ気療いえども、如何ともしがたい。
 
 
逆に、医者から、もう、ダメと言われながら、完全に、病気から回復した人もいる。
 
こういうことは、人知では計り知り得ない、神のみぞ知る寿命というものが、しからしめる業、と言わねばなるまい。
 
 
だから、電話などの、「○○という病気ですが、治るでしょうか?」という問い合わせに対して、私が常に、「やってみなければわかりません」と答えるのは、こういった訳があるからである。
 
 
 
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難病とともに

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読売新聞に医療ルネッサンスという、囲み記事がある。
 
その時々によって、テーマは違うらしく、今日(11月15日)のテーマは、「難病とともに」であった。
 
 
聞きなれない病名だが、「急速進行性糸球体腎炎」という病気が取り上げられていた。
 
腎炎の一種らしいが、この「急速進行性糸球体腎炎」という病気は、「老廃物をろ過する役割がある腎臓の糸球体が急速に炎症を起こす病気の総称を」言うらしい。
 
この男性の場合「症状は腎臓にとどまっており、早く見つかったので腎機能の低下もそれほど進んでなかった。入院して炎症を抑えるステロイド(副腎皮質ホルモン)の薬を点滴し、約2か月後に退院できた」という。
 
そして、男性は「(医師から)受診が数ヶ月遅れていたら人工透析になっていただろう、と言われました。今では再発もなく、2か月に1度通院して経過を観察し、免疫抑制剤の服用を続けながら、落ち着いた日常を送っている」という。
 
 
このような記事を見るたびに、奇異に感じるのは、この場合も「腎臓の球糸体が炎症を起こし」とはあっても、「球糸体」の何が炎症を起こしているのか、全く触れられてない、ということである。
 
ステロイドは、神経の炎症を抑える効果のある薬だから、この場合も、腎臓の球糸体の神経が炎症を起こしていた、と考えてもいいのだろう。
 
 
難病とは、その殆どが、神経が炎症を起こして、なっている病気だと思われるのに、どの難病の説明を見ても、決して、「神経」のことを言わないのは、
 
定めし、神経の炎症が原因と書くと、結果として、「では、その神経の炎症とはどうして起こるのか」を説明しなければならなるから、意図的に、ぼかして、言っているのではないかと、思われる。
 
神経の炎症は、「気」が関係しているから、現代医学は、神経の炎症の原因を説明できない。
 
説明できないということは、わかってないということだから、従って治すこともできない、ということなのだろうと、思う。
 
 
もう一つ、
 
こういう記事を見て、不思議に思うのは、医者は、ステロイドと免疫抑制剤で、症状をただ抑えているに過ぎないのに、あたかも、病気が治ったかのように、「処置が早かったので、人工透析を避けられた」などと、暢気なことを言っていることである。
 
つまり、この場合、薬で症状を抑えているだけだから、再発の可能性は、ないのか、という強い疑問が残る。
 
症状を薬で抑えているだけなら、同じような環境に置かれた場合、再発すると考えた方が、合理的なように思われる。
 
 
それに、ステロイドも、免疫抑制剤も、副作用があることは、周知の事実である。
 
この人も、今後、何度も再発を繰り返し、その度に、ステロイドや免疫抑制剤を使わなければならないような羽目に陥らねばいいが、と心配する。
 
 
近藤誠先生の「医者に殺されない47の心得」じゃないが、結果として、医者に殺されるようなことにならなければいいが、と心配になる。
 
 
 
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私のリビングウィル

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昨日(11月19日)の読売新聞、「論点」には、日本尊厳死協会理事長の岩尾総一郎さんと言う人が、リビングウィルについて書いている。
 
リビングウィルという言葉自体、特に、若い人には馴染みの薄い言葉だろうとは思うが、
 
 
リビングウィルとは、前出の岩尾さんによれば、「人生の最末期が近づいた時、延命治療を望んでいないことを、書面にして残すこと」と言えそうだ。
 
趣旨は、と言えば、再び、岩尾さんの言葉をお借りすれば、「人生の最期が近づいた時、自分が延命治療を望んでいないことを文書にして残すこと」、ということになる。
 
 
リビングウィルについての可否は別にして、実は、私も、先日、リビングウィルを文書にして、妻に託した。
 
しかし、文章は、自分独自のものは殆どなく、全面的に、慶応大学の近藤誠医師の本「医者に殺されないための47の心得」の巻末にあるものによっている。
 
 
以下の文書は、私のリビングウィルそのものだが、
 
中でも、冒頭の「私は、颯爽と生き、颯爽と死のう、と思って今日まで生きて来ました」という部分だけは、私のオリジナルです。
 
だから、この冒頭の部分だけは、私の真骨頂とも言うべきものです。
 
これに付け加えて、私は「常に、正義と理想を求め」、そして「颯爽と生き、颯爽と死のうと思っています」となると、私の人生観そのものになる。
 
 
病院のベッドに縛り付けられ、何本もの管によって生きながらえ、ただ、息をしているだけの植物人間になりたくなかったら、リビングウィルを書くことを、お勧めする。
 
 
 
鎌田 毅成のリビングウイル
 
私は、「颯爽」と生き、「颯爽」と死のう、と思って、今日まで生きて来ました。
 
だから、一切の延命治療をしないで下さい。
 
今、私は、意識を失っているか、呼びかけても少し反応するだけかもしれません。
 
既に、自力では呼吸も殆どできないかもしれません。
 
しかし、このまま命が尽きても、何も、思い残すことはありません。
 
だから、決して、救急車を呼ばないで下さい。
 
既に病院にいるなら、人工呼吸器をつけないで下さい。つけられているなら、外してください。
 
自力で飲んだり食べたりできないなら、無理に、口に入れないで下さい。
 
点滴も、チューブ栄養も、昇圧剤、輸血、人工透析なども含め、延命のための治療は何もしないで下さい。
 
既に、行われているなら、すべてやめて下さい。
 
もし、私が苦痛を感じているようなら、モルヒネなどの、痛みを和らげるケアは、ありがたくお受けします。
 
私は、この文章を冷静な意思のもとに書き、家族の了解を得ています。
 
どうか、いっさいの延命治療をしないで下さい。お願いします。
 
                     2013年10月23日
 
                                          鎌田 毅成

糖尿病

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糖尿病について、どの医学書にも、血液中の血糖値が異常に高いとか、糖尿病は、糖尿病そのものよりも、血糖値が高いことによる合併症の方が怖い、とかあって、
 
どこにも、病気の元、つまり血液中の血糖値が高くなる原因については、全く、触れられていない。
 
 
言うまでもなく、血糖値が高いということは、あくまでも、結果に過ぎない。
 
原因がわからない、ということは、即ち、治せない、ということを意味する。
 
 
そういうことからすれば、この糖尿病という病気も、
 
今も昔も、現代医学が治せない、ということからして、喘息や神経痛など同じく、難病、つまり、難治の病気と言っていいのだろう。
 
 
ところが、サイ気療では、この糖尿病も、喘息や神経痛などと同じく、割と簡単に治せる。
 
 
サイ気療で簡単に治るということからして、この糖尿病という病気も、神経の炎症が原因でなっているのかもしれない。(どこの神経が炎症を起こしているのかはわからない)
 
 
しかし、どんな医学書を見ても、こと糖尿病に関する限り、神経の炎症などという言葉は、どこにも出てこない。
 
一方、腎臓に関する病気には、慢性腎炎だとか、或いは、腎盂炎などといって、病名そのものに「炎」が使われていることが多いから、これらの病気は、明らかに、神経が炎症を起こしてなっていることがわかる。
 
 糖尿病を語る時に、このように、わざわざ、このような腎臓の病気を持ち出したかというと、
 
腎炎とか腎盂炎とかいった腎臓の病気が、サイ気療で、簡単に治るのは、
 
言葉からして、腎臓の神経が炎症を起こしているからであることは、直ぐにわかる。
 
そして、糖尿病もまた、サイ気療で、簡単に治るということは、もしかしたら、この病気の原因も、膵臓とかの神経の炎症が元になっているのではないか、と考えたからである。
 
 
多く言うまでもなく、日頃、私のブログを見ていて下さる方は、神経の炎症は、神経を流れて私たちの命を保ってくれている「気」が不足するか、停滞するからである、ということを、よく知っている。
 
そして、現在難病と言われている病気の殆どが、神経の炎症が元でなっていることが多く、
 
現代医学が、これらの難病を治せないのは、神経の炎症が「気」の不足が原因でなっていることを、全く、分かっていないばかりでなく、「気」の存在すら、否定するところから出発している学問だからである、ということを、みな、よく知ってくれている。
 
 
つまり、私のサイ気療が、殆どの難病を治せるのも、又、反対に、現代医学が殆どの難病を治せないのも、「気」がわかっているかどうか、或いは、その「気」を使って病気に対処できるかどうかにかかっている、ということになる。
 
 
糖尿病も腎炎などの腎臓の病気も、ことさら、私の所に来て、直接、私のサイ気療を受ける必要はない、
 
電話による遠隔治療でも、簡単に治る。というより、簡単に治っている(事実がある)、と言った方がいかもしれない。
 
 
このブログを見てくれている人の中で、過去、一度でも、糖尿病や腎炎などの病気を、私のサイ気療を受けたことのある人は、その殆どが、「ウン、ウン」と頷いて見てくれていると思う。
 
「気」というものは、自分で体験してみないと、わからないよ。

気と瞑想

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気と瞑想と、何の関係があるか、と訝しく感じる向きもあるかもしれないが、気がわからなかったら、瞑想も深まることはないと思う。
 
つまり、気がわからなかったら、無念無想の究極である、三昧の境地に達することもないと思う。
 
 
それでは、気はどうしたらわかるかというと、神と人とが、冥号することによってわかるのである。これを神人冥合と言う。
 
神人冥合とは、神の世界、即ち、気だけが存在する世界、これを空とも言ったりするが、神と人間とが一体融合することである。
 
 
もともと、人間とは、本来、気で出来ているものである。
 
「気で出来ている」とは、肉体は気を材料にして造られている、ということは勿論だが、その肉体の中心には、気の組織が存在する、という意味でもある。
 
 
神人冥合とは、この人間の肉体の中心にある気の組織と、神の世界、つまり、気だけが存在する世界とが、一体化して溶け合うことを指す。
 
もともと、神の世界と、人間の肉体の中の気の組織と、心を通じて一体化するようになっている。
 
つまり、神人冥合は、心を通じてなされるように、自然に出来ている。
 
 
心の中の雑念妄念が少なくなりさえすれば、肉体の中の気の組織と、神の世界、つまり気だけが存在する世界とは、自然に、繋がるようになっている。
 
なぜならば、空の世界、つまり、気だけがある世界と、人間の肉体の中の気は、同じものだから、
 
「同じものは相引き合う」という原理によって、お互いが、合体融合するようになっているのである。
 
 
さてそれでは、神人冥合と、無念無想とはどんな関係があるかというと、
 
心の中に雑念妄念が少なくなくなると、神の世界、つまり空から、人間の心の中に気が流れ入って来て、
 
その流れ入って来た新しい気によって、それまで心の中にあった雑念妄念が、排除されてしまうからである。
 
 
もともと、心の中の雑念妄念が、無念無想を妨げているわけだから、それまであった雑念妄念が排除されてしまえば、無念無想になるのは、極めて自然のことである。
 
初めは、難しいかもしれないが、神人冥合も、慣れれば、簡単に出来るようになる。
 
神人冥合が、簡単に出来るようになれば、無念無想の究極の状態である三昧という心境にも、簡単に入れるようになる。
 
 
そうなれば、無理に、無念無想と思わなくても、つまり、努力しなくても、ただ、座っただけで、神の世界から気が入って来て、
 
心も体も、気で一杯に満たされ、無念無想になれるのである。

利のやっこ、位のやっこ多き世に

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明治から昭和にかけての歌人、佐々木信綱に、次のような歌がある。
 
「利のやっこ 位のやっこ 多き世に 我は我が身の あるじなりけり」
 
やっこ:下僕、奴隷の意味
 
 
直訳すれば、「世の中には、お金の奴隷、位の奴隷ばかりだが、自分は自分の主人でありたい」ぐらいに受け取れるか。
 
 
前半の「利のやっこ 位のやっこ 多き世に」はよくわかる。
 
だって、世の中は、利の奴、位の奴ばかり、と言っていいもの。
 
 
しかし、後半の「我は我が身の あるじなりけり」は難しい。
 
 
「難しい」、と言ったのは、
 
1、自分は自分の主となりたい、といった願望のことを、言ってるのか。
2、俺は、他と違って、そういうものには決して惑わされることはない、と言っているのか、つまり、俺は、既にそういう心境になっている、と言わんとしているのか。
 
どう解釈するのか、難しい。
 
 
さらに難しいのは、「我は我が身の あるじなりけり」を、どう解釈したららいいのか、もっと難しい。
 
逆から考えたら、前半に「利のやっこ 位のやっこ 多き世に」と言っているところから、後半の「我は我が身の あるじなりけり」とは、俺はそういうものには惑わされない、という意味くらいには解釈できる。
 
しかし、単に、お金や、地位に惑わされない願望をもっていて、そう生きていたにしても、ただ、それだけで、「我は我が身の あるじなり」と言えるかどうか、大いに疑問が残る。
 
つまり、そう思って努力しただけで、何時、なんどきも、お金にも地位にも、絶対に惑わされない生き方ができるかどうかは、怪しい。
 
逆に言えば、そういうことができる人は、よっぽど人間が出来ている人でなければ、出来ないだろう、と思われる。
 
 
何故なら、人間には感情というものがある。
 
例えば、自分と同じように貧しかった友人が、お金持ちになったり、或いは、出世して社会的な地位を得たことを知ったとして、果たして、嫉妬の感情は湧かないだろうか?
 
普通なら、難しい。
 
 
自分の心を、精密な機械を動かすように、自由自在に心(感情)をコントロールできる人でなければ難しい。
 
佐々木信綱という人が、有名な歌人だということは知っているが、そういうことができる、いわば、いわば、悟りを開いたような人物だった、という話は、未だ、聞いていない。
 
 
ただ、「そういう願望を持っている」、と言うだけなら、俺にだってある。
 
俺も、日々、その為に、努力しているが、
 
完全にそうなっているかどうかは、疑わしい。

退く時は一人で決せよ

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司馬遼太郎の、小説「峠」の主人公は、幕末戊辰戦争当時の、越後長岡藩の英雄、河井継之助である。
 
彼のモットーは、「進む時は人任せ、退く時は自ら決せよ」であったという。
 
 
「進む時は人任せ」というのは、簡単に言えば、「猟官運動などしない」という意味である。
 
「猟官運動」とは、今の若い人には耳慣れない言葉だと思うが、要は、地位やお金欲しさに、盆暮れ、上司に付け届けをしたり、夜陰に紛れて上司の自宅の周辺を、ウロウロうろつき回るようなことを言う。
 
 
そして「退く時は自ら決せよ」というのは、トップになったら、辞める時は自分で決めなければいけない、ということである。(この際、問題にしているのは、あくまでも、組織のトップのことである)
 
これが難しい。
 
何故なら、そろそろ、辞めるべきと思っても、トップに対して、「あなた、もういい加減に辞めなさい」などと言える勇気のある人など、内部には、めったにいない。 
 
それに、トップが、自分の周りの人に、辞めることを相談などしたら、「辞めるな」と強く慰留されるのは、決まっているからである。
 
 
なぜなら、周りの関係者はみな、その人を頼りにして、いわば、その人に、ぶら下がって生きているような人たちばかりだからである。
 
つまり、その人が辞めたら、明日からたちまち、自分も、オマンマの食い上げになってしまうから、辞めるなと、必死で止めるのは当たり前のことである。
 
 
誰も、「貴方辞めなさい」と言わないからといって、そして、周囲の者たちはみな、こぞって、「辞めるな」と慰留するからといって、何年の何年も、その地位に居座り続けるから、組織は腐り、次第に傾いて行く。
 
 
なぜなら、花や木と同様、人間も、自然が作ったものだからである。
 
花や木は、春になれば、芽が吹き、花が咲き、夏になれば実になって、そして、冬になれば、葉は枯れ、実は落ちる。
 
新陳代謝は自然の摂理である。
 
前の年の葉や実が落ちるから、翌年、又新しい芽が吹き、葉が茂り実がなって、木は年々大きく成長して行くのである。
 
 
時に、「流れなくなった水は腐る」という言葉もある。
 
人事が動かなくなった組織も、流れなくなった水が腐るように、間違いなく、腐り、そして遂には、衰え、細くなって行く。
 
だから、いつまでも活き活きとした組織である続ける為には、水が流れるように、そして、草木が年々、生々発展して行くように、人事も、年々歳々、新しく、更新され続けなければならない。
 
 
トップが何年も何年もその座に居座って、自ら、組織の新陳代謝や、水の流れをせき止めるようにことをしていて、組織が活性化する筈がない。
 
ということは、組織のトップになるような人は、必ず、「無私」の人でなければならない、ということである。
 
 
反対に、自分のことばっかり考えている人がトップになったりするから、なった途端、いつまでも、その座にしがみ付こうとするのである。
 
その座にしがみ付こうとするだけなら、まだいいが、得てして、こういう我欲の強い人は、自分の座を守ろうとするあまり、同僚や後輩をいじめたり、蹴落としたり、するものである。
 
悪いことには、その時、いじめられたり、蹴落とされたりするような人は、トップの座を脅かしそうな、有能な人達ばかりなのである。(能力のない人は、トップからいじめられることはない)
 
 
周囲の有能な人が、やる気を失って不平不満ばかり言っていて、逆に、トップの顔色ばかり窺っているような、ゴマスリばかり上の方にいたら、その内、有能で、やる気がある人は、一人もいなくなる。
 
 
西郷さんは、「お金もいらぬ 名誉もいらぬ 命もいらぬ、そういう人は始末に困るものである。そういう人でなければ天下の偉業は成し遂げられぬ」と言ったという。
 
これを、逆さまに言えば、国のトップを任されるような人は、お金も、名誉も、命もいらない、そのような、私心のない人でなければならない、ということになる。
 
 
国ほど大きくなくても、いやしくも組織のトップともなると、
 
少なくとも、辞める辞めない位は、自分一人で決められるような人がならなければならない。

近藤医師の限界

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この度、慶応大学の近藤医師が「がんもどきで早死にする人、本物のがんで長生きする人」という本を、幻冬舎から、出版されたと聞く。
 
昨日(11月29日)の読売新聞の広告で知った。
 
 
新聞にも、細かく箇条書きにしてあったので、こちらも、本の内容について、詳細に知ることができたが、第一印象は、前回出版された、「医者に殺されない47の心得」と、特段変わったところはない、というものだった。
 
いわば、「47の心得」の焼き直し版、と言ってもいいだろう。
 
 
近藤さんの本を読んでいて、感じることは、彼の言っていることを一言で言えば、所詮、テーゼに対する、アンチテーゼに過ぎないということである。
 
 
つまり、彼は、現代医学の欠点、医療界の裏面(暗部)を内部から告発した、いわば、告発者に過ぎない、ということになるか。
 
つまり、彼の言っていることは、あくまでも、現代医学の範囲内でのものに過ぎず、決して、現代医学を超えるものではない、ということである。
 
 
更に、論を進めると、彼の言っていることは、ただ単に、現代医学の欠点を批判するものに過ぎず、それに代わる、何か画期的な方法を、示しているものでは、決してない、ということである。
 
 
とは言っても、彼が、現代の過剰医療(もうけ主義による、薬漬け)、医者と製薬業界との癒着など、内部から、現代医学を告発したことは、非常に意義深いことだと思う。
 
いわば、内部告発者としての、彼の実績は、大いに賞賛されていい、と思う。
 
 
しかしながら、彼の言っていることは、「では、私たちは、病気になったらどうしたらいいか」、という素朴な疑問に答えるものでは決してない。
 
 
本を見た人はよくわかっていると思うが、端的に言えば、「癌になったらどうしたらいいか?」という素朴な質問に対して、「死ぬ癌は、必ず死ぬ。死なない癌は、放っていても死ぬことはないから、いずれにしても、放ったらかしにしておきなさい」というものである。
 
それでも、「癌になって、医者にかかって、手術や抗がん剤治療をしたら、結局、死期を早めるだけだから、医者に行くのは、止しなさい」と言う彼の主張は、正に、その通りだと思うし、そのことを内部から告発した、彼の勇気に、大いに敬意を表するものである。
 
 
しかし、極論「癌になっても、ほったらかして置けばいいんだ」という説には、仮に彼の言っていることを認めるにしても、本当に、そうできる人がいるだろうか、という大きな疑問が残る。
 
 
思うに、医者に「貴方は、癌ですよ」と言われて、「近藤先生が言っている通り、医者に行って治療しても、しなくても、一緒だから、このまま放置しておこう」、といって、そうできる人は、例え、いたにして、おそらく、1000人に一人位のものじゃないだろうか。
 
なぜなら、それは、理屈じゃなくて、その人の度胸、つまり心の強弱の問題だからである。
 
つまり、「貴方は癌ですよ、近いうちに死ぬ可能性がありますよ」と言われて、慌てず、騒がず、泰然自若として、病院にも行かず、病気をそのまま、放ったらかしにしておける度胸のある人は、めったにいないだろう、と思うのです。
 
 
近藤先生!それぐらい度胸のある、肚の据わった人なら、第一、「心」と「気」の関係からして、癌を始めとして、どんな病気にもなりませんよね。
 
貴方が、現代医学が、病気に対して、如何に無力なものか、或いは、抗癌剤治療が、如何に危険なものか、声高に主張しても、
 
それが、正しいにしても、普通の人には出来そうもない(100人が100人できない、と言っても過言ではないでしょう)ことを言ってみたところで、一顧の価値もない、ということにないはしませんか。
 
「価値がない」どころか、「医者として、無責任の誹りを免れない!」ということになりはしなせんか。
 
一般の人の、医学に対する無知、そして、心の不安に付け込んで、効きもしない、(効かないどころか、逆に健康を害するような薬)を処方して、恬として恥じない、その他大勢の医者に比して、貴方の方が、格段に、良心的であるにしても。
 
 
近藤先生よ!「いや!俺は無責任ではない!」と言い張るなら、現代医学に対抗できるような、「こうやったら病気を治せる!」という対案を、示してみたらどうですか?
 
 
私は、数十年のサラリーマン生活に終止符をうって、50代前半に経営コンサルタントを始めました。
 
数年のうちに、経営コンサルタントの仕事が舞い込んで来て、実際に、ある会社の経営指導を始めた。
 
従業員、50数人の小さな会社だったが、そこで、社長や役員の経営指導をする内、「これは、理屈だけでは、人は言うことを聞いてくれない」という現実を、イヤと言うほど、思い知らされることになった。
 
つまり、小なりといえども、長年、会社経営を続けてきた会社のトップというものは、それなりの経営哲学や、立派な人生観を持っていて、そこを突破できない限り、コンサルタンとしての私の言い分に、心から耳を傾けてくれることはない、という事実に突き当たったのです。
 
 
大方の人が、ご存じだと思うが、私の著書の名前を「人物論と宇宙論」という。
 
経営コンサルタントには、単なる経営理論だけではなく、その経営理論の上部にあって、それを包括するような、何らかの理論がどうしても必要なことを知って、暗中模索、探し求めること数年、遂に、到達したところが、中村天風先生だった、というわけである。
 
つまり、私の「人物論と宇宙論」という本は、コンサルタントとして、長いこと探し求めていて、遂に到達し得た、到達地点を「人物論と宇宙論」という題にしたものだった、のである。
 
 
外でもない、自分のコンサルタント時代のことを、引っ張り出してきたのは、近藤先生にないもの、つまり近藤先生の主張することの欠点は、この私のコンサルタントとしての宇宙論に該当するがない、ということを、言わんとしたがためである。
 
もっと、具体的に言うならば、彼は、肉体や肉体的疾患、つまり病気のことについてはよく知っているが、その肉体が何によって、作られているか、或いは、何によって保たれているか、と言うことが、全く、わかっていないのである。
 
 
近藤先生と同じように、「医者に命を預けるな」という本を書いた、中村仁一先生は、本の中で「ふつう、医師は医学の、それも病気の勉強しかしていません。だから、必ずしも豊富な人生体験を持っているとは限らず、また、人生修業を格別してきたわけでもありません。」と言っている。
 
これは、受け取りようによっては、専門バカという言葉がある通り、「医者というものは、世間知らずの、偏った性格の人が多い」という風にも解釈できます。
 
 
近藤誠先生の本を読んでいて、中村先生の言うところの「人生修業のたりない、世間知らず」という言葉が、時折、脳裏をかすめるのは、残念なことである。
 
彼が、現代医学の欠陥を言いながら、その現代医学に対する、対案を示し得ない以上、そう言われても仕方がないでしょう。
 
思うに、今の彼は、現代医学の欠点を言いながら、自らも、その現代医学の範囲から一歩も出ない、いわば「同じ穴の貉」と言うことができるでしょう。
 
 
その点、中村仁一先生は、「自然治癒が本来の姿であり、『治療』は不自然です。しかし、そのように言いきってしまえば、一切の『治療』は無駄で無意味と言うことになり、現実の有意義な『治療』まで否定しさることになります。主体は自然治癒ですが、治癒するまでの苦痛を緩和したり、治癒の妨げとなっているものを除去したりすることは、決して意味のないことではありません」と言っているが、
 
これが、現代医学に対する、妥当で適正な評価でしょう。
 
中村仁一先生は、古希も過ぎ、既に、第一線を退いたベテランの医師だけに、人生修業と言う点では、近藤先生より、数段上と言っていいでしょう。
 
 
それだけ、中村先生も、更に、「自然治癒力とは何か?」ということに、深く、思いをこらし、「人間の命を生かしているのは気だ」ということに、早く気がついて欲しい願うものです。

韓国、「恨」の思想

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「恨」という字は、わが国では「うらみ、こん」と呼び、韓国では「はん」と呼ぶらしい。
 
読み方は違っても、意味は一緒で、わが国でいうところの、「うらみ」という感情を表す言葉だという。
 
 
わが国に、安倍政権が誕生して以来、韓国の我が国に対する、歴史認識、慰安婦問題等、執拗な誹謗中傷は、わが国政府関係者が「度が過ぎる」と思うほど、激しく厳しい。
 
 
読売新聞の記事によれば、
 
韓国済州島出身者で日本に帰化した、呉善花(オ・ソンファ)拓殖大学教授はこうした怨念にも近い反日の背景には、韓国人特有の感情である恨(ハン)の存在があるという。
 
「『「恨』」とは、韓国民衆の被抑圧の歴史が培った苦難・孤立・絶望の集合的感情を意味し、嘆きや恨みを行動のエネルギー源とする思考法であり、『韓国人は相手に恨みがあるということを機会あるたびに言いたがる。日本にやられた、と言うことで力が増してくる』」と言っている。
 
 
連日の韓国政府の、執拗な反日の言動を見るにつけ、私は、かつて、アルジェリアで仕事をしていた当時のことを思い出す。
 
 
かの国も、韓国同様、かつて、フランスや、スペイン、或いはトルコと言った国に植民地支配されたことのある、いわば、被抑圧の歴史を負った国である。
 
アルジェリアに「恨」という思想があったかどうかまではわからなかったが、韓国同様、被抑圧民族特有の強い自己主張、特に、絶対に自分の非を認めない、そして、お互いに協力して、何かをするという文化・習慣は、全くなかったように思う。
 
聞くところによると、自己主張が強く、決して自分の非を認めないという国民性は、植民地当時、自分の非を認めることは、死を意味することだったから、ということだった。
 
これも、韓国同様、他の民族から、抑圧され続けてきた長い歴史が、育ててきたものなのだろう。
 
 
当時、現地人の労務管理を通じて知ったことは、こういう国民を統治して行く方法は、力しかない、ということだった。
 
中東の国々が、独裁国家になりやすいのは、一にかかって、力のある、強い指導者にしか従わない、という国民性によるものだと思う。
 
 
韓国も、同じなのだろう。
 
前出の呉善花氏は、読売新聞の記事の中で、次のように言っている。
 
「韓国は強いと感じた相手を尊敬する。日本は当分、距離をおいて韓国を眺めてみるがいい。こちらから距離を縮めようとすれば足元を見られて色々な事を要求されるだろう。」と。
 
同じようなことを、道下徳成政策研究大学院准教授も、「韓国は手ごわいと思った相手には慎重になる。日本は冷静かつ毅然と韓国に向かい合うことが求められる」、と読売新聞の記事の中で、言っている。
 
 
ところで、読売新聞によれば、呉善花さんという人は、「スカートの風」(角川文庫)など、韓国に関する著書を多数出版し、(韓国に)反日意識を改めるよう訴え続けている人だという。
 
 
本を読んだことがないので、呉善花さんが、どういう理由で韓国に反日を改めるように主張しているのかよく知らないが、
 
「恨」(人を恨む)という感情は、決して美しいものではない。
 
美しいどころか、傍から見ていて、醜悪というか、何か、動物的なものを感じさせる感情であり言葉である。
 
プラス、マイナスで言えば、断然、マイナス思考である。
 
なぜなら、わが身を省みても、他人を恨んだり、憎んだりしている時の気持ちは、決して心地よいものではないからである。
 
 
マイナス感情に基づいた感情思考というものは、決して、神様の受け入れる所ではなく、結局は、人生の破綻につながる。
 
とは言っても、「抑圧されたという逆境をエネルギーにして、努力しよう」と考えるのは、韓国人ならずとも、我々だって、よくわかる。
 
 
しかし、韓国人も、恨みや憎しみという間違ったマイナス感情からは、決して、正しい結果は生まれないことを、しかと思い知るべきだろう。
 
 
韓国人が、抑圧されたという経験から、何か、正しい結果を生み出そうとするなら、
 
恨みとか、憎しみとかいったマイナス思考を、プラス思考に変えて行かなければならない。
 
 
つまり、抑圧されたことを「抑圧されたというのは、自分にも何か非があったからで、神様がお前の生き方は間違っている、これを機会に、生き方を改めなさい、という目的で自分に課してくれた試練である」という風に考え方を変えなければならない、ということである。
 
 
これは、他人事ではない。
 
病気で苦しんでいる人や、不運に泣いている人だって、「なぜ俺ばっかり、こんな病気になって、何も悪いこともしないのに」とか、
 
「みんな同じことをやっているのに、何で、俺ばかりこんな目に遭わなければならないんだ」とばかり、
 
世間を恨んだり、他人を憎んだり、延いては「神も仏もあるものか」なんて神様まで悪く言っているようでは、心と「気」の関係から、病気だって、運命だって、決して良くなることはありませんぜ。
 
 
だって、病気だって不運だって、貴方が、もっとよくなるために、神様が、与えてくれて試練というのが本当なんだもの、真理なんだもの。
 
だから、病気になっても、不幸に出会っても、「ありがたい」と思わなきゃ。

小坂整形外科の小坂先生

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東京池袋の小坂整形外科の院長、小坂 正さんが、「身体の痛みを取るには気功がいい!」という本を出版された。
 
小坂先生とは、いまだに、一面識もないのだが、
 
そのホームページ(http://www.kosakaseikeigeka.com/)で「気の達人、気を実現して教え示してくれる方が」と称して、数人の気功師を紹介しているが、その中の一人に私も入っていて、
 
「サイ気療日記は素直にすごいなあと賛同します」と紹介してくれているのが、縁と言えば縁である。
 
 
小坂先生が、上のような本を出版されたことは、最近来た患者の口から知った。
 
 
私は、最近のブログで、慶応大学の近藤誠先生や、「医者に命を預けるな」という本を書かれた、中村仁一先生のことを、続けて紹介してきたが、
 
小坂先生も、同じように、現代医学は病気を治せない、というところから出発した方で、本の中でも次のように言っています。
 
 
「医学も、私が学生だったころと基本的に何も変わっていません。検査が増え、薬も増え、機械も増えて、人工関節もモデルチェンジして、病名が増え、難病・奇病患者が増え、そして癌の死亡者も増え続けています。それは、まさに軍事力が増大するにつれ、紛争も増え、そして、犠牲者の数も増えるといったイメージと重なります。
医学は十年で底が見えました。これはパラダイムシフト(革命的変革)が必要です。救命救急と一群の手術は必要なので例外として、対症療法、つまり力で押さえ込む医学は、本質的に暴力的で野蛮です。限界が低く、願うほどには治らない現状があります。」
 
ここでは、少し遠慮がちにこう述べていますが、先生が師と仰ぐ安保先生(安保徹、現新潟大学医学部教授、免疫学の権威)の、「安保先生の著書はほとんど読みましたが、現役の医学部教授が『薬をやめると病気は治る』というタイトルの本を出版なさるのですから、これは痛快というか堂々たるものです。その主旨は、『現代医学は基本から間違っている、身体の基本を知らないまま対症療法にとどまっているので、治療しているつもりで悪化させている』と言い切っています」という言葉を引用していますが、これが、彼の本音でしょう。
 
 
「医者に殺されない47の心得」の近藤誠さんは、内部告発者として、その勇気は、大いに賞賛されるべきにしても、いかにせん、批判ばかりで、対案を何ら示してないことには、失望せざるを得ません。
 
中村仁一先生も、現代医学の欠点を指摘しながら、その対案については何ら言及してないのは、大いに物足りなさを感じるところです。
 
 
それは、お二人とも、人間の命が何によって作られ、保たれているかということが、未だに、わかっていないせいでしょう。
 
つまり、人間の命というものを、肉体という物質に限って考えているからでしょう。
 
 
その点、小坂先生は、「整形外科医である私は気功ができるようになり、気功を使って、痛んだり病んだりしている人を治せるようになりました。
(途中略)
通常のことは目途がついたので、今後は『気』や『愛』でできることをしたいと考えたいと思います。そうすれば、人間は肉の塊ではないことがはっきり証明されます。そうすると現代医学の基盤が変わり、パラダイムシフトが起きるでしょう。
(途中略)
ですからある日、この世界(医学の世界?)もパッと変わります。変わりそうです。私はそれを予感しています。」と言っていますが、
 
 
これは、彼が、人間の命というのが、何によって作られそして、保たれている、ということについて、既に、わかっている証拠、と見ていいでしょう。
 
このことは、パラダイムシフトという言葉を使って、劇的に変わる先の世界を、予見していることからもわかります。
 
 
近藤先生、中村仁一先生に続き、現代医学の中から、遂に、こういう立派な人が飛び出して来たかと思うと、感無量の思いに打たれます。

小坂整形外科、小坂正先生の本を読んで、最も嬉しかったこと

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先に、このブログ上で、小坂整形外科の小坂正先生が「身体の痛みを取るには気功がいい!」という本を出版されたことを紹介した。
 
読んでみて最も嬉しかったことは、現役のお医者さんに、日頃私が言っていることを、認めてもらったことである。
 
と言っても、私が勝手にそう思っているだけで、本人から「貴方の言っていることに賛成します!」なんてことを、言ってもらったわけではない。
 
 
私はサイ気療について、「日頃から、私たちの命というものは、神経を流れる「気」によって保たれている。
 
だから、病気というのは、その「気」の流れが滞るか、流れが悪くなった場所に発生する。
 
「気」の流れが悪くなった所の神経は炎症を起こして硬くなっているから、その硬くなった神経を指先で探り当て、柔らかくすることによって病気をなおしている。」と主張している。
 
こういうことを私は、実際に治療をする中で、つまり、経験から知ったのだが、
 
おそらく、小坂先生は、学問的な裏付けがあってことだと思うが、同じようなことを、次のように言っている。
 
「胃炎とか、肺炎とか、心筋炎とか、脳脊髄膜炎とか、病気にはみんな炎が付いているように、病気のほとんどは炎症です。千島学説では癌や肉腫のような悪性腫瘍さえも慢性炎症だと言っています。
つまり症状が出たら、その根底に炎症あると考えられます。つまり、問題と痛みとの間に、炎症という過程があります。逆に言うと、炎症がないと痛みはありません。痛みの本体は炎症です。治療とは炎症のコントロールです。」
 
 
勿論、私も、痛みは、神経の炎症が原因だとは、思っていますが、
 
ここで、先生は、整形外科の専門医で、でいわば痛みを治すことを専門にしているから、痛みのことだけを問題にしているようですが、
 
文面から察するに、先生が上で痛みと言っている所を、病気と置き換えて言っても、おそらく、先生からクレームがくることはあるまいと思います。
 
 
これまで、千島学説など知りもしなかったが、私は、癌も一種の腫瘍である限り、神経が炎症を起こしてなるものと、信じています。
 
それは、これまで、癌を治した経験から、私は、そう言うのです。
 
 
ご存知の方も多いと思いますが、私はこれまで、「私が言っていることが事実であることを証明する為には、どこへでも、どんな権威の人の所でも、こちらから出かけて行きます」と言っているのだが、
 
いまだに、お医者さんは勿論、誰からも、試したい、と言って来たことは一度もない。
 
 
はからずも、こういう形で、現役のお医者さんから、日頃、私が言っていることが、正しいという、お墨付きをもらったようで、「わが意を得たり」というか、とにかく、嬉しい気分にさせられのことは間違いない。
 
 
ただ、お断りしておきますが、小坂先生とは、これまで会ったことは勿論、言葉を交わしたことすらありません。

小坂先生の本で、残念に思われた部分

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小坂整形外科、小坂正先生が出版された、「痛みを取るには気功がいい!」という本を読んで、納得したところばかりではない。
 
 
特に、中村天風先生について書かれた、次のような下りには、違和感を覚えた。
 
「その昔、中村天風先生がインドのヨガの聖人カリアッパ師の教えを受けて、死病といわれた奔馬性結核から回復したのは、まさにこれでした。認識が変わったら治ったのです。」
 
 
「認識が変わったから治ったのです」という所の説明を、前段の部分で、彼は、次の様に言っています。
 
「肉体は鍛錬しても変わるには数ヶ月はかかりますが、心は一瞬で激変します。心が変わると体が変わります。入力と出力の関係です」
 
 
このことからして、彼は、天風先生が奔馬性結核を治したのは、心が変わったから、と言いたいのでしょう。
 
しかし、彼が言うように、心というものは、一瞬で激変するようなものではありません。
 
むしろ、事実は反対で、体は簡単に変えられますが、心というものは、簡単に変えられるようなものではありません。少なくても、一瞬で激変するようなものではありません。
 
 
天風先生も、変えられないから、長年、苦労したのでしょう。
 
私たちも(特に心の病をもった人たちは)又、変えようと思って努力しても、変えられないから、苦労しているんでしょう。
 
 
そして、彼のこの文章を読む限り、心が変わっただけで、天風先生は、病気を治したように書いてありますが、心が変わっただけで、病気が治ったのではありません。
 
心が変わったことには違いありませんが、ある日、突然激変したのではありません。
 
 
つまり、修業を重ねることによって、少しづつ、心の中の雑念妄念が少なくなって、
 
心の中の雑念妄念が少なくなるに従って、肉体の中に「気」が、入って来るようになり、その「気」によって、天風先生は奔馬性結核を治したのです。
 
 
小坂先生の説明には、途中の「気」の部分がすっかり抜け落ちています。
 
 
このことについて、もう少し、私の解説を加えるなら、
 
心の中に雑念妄念が少なくなって、神人冥合、つまり、心を通じて神の世界(気が充満した世界)と繋がったから、「気」が人間の身体の中に入ってきたのです。
 
 
そして、「気」というものは、あるかないか、普通ではわからないような、曖昧で抽象的なものではありません。
 
つまり、気が人間の肉体の中に入って来る時、
 
頭頂や印堂や或いは、丹田と言ったところに「気」が入って来る様子が、はっきり、自覚できるのです。
 
 
「気」は具体的に実感できるものである、ということについて、具体例を挙げれば、その他にも色々沢山あるのですが、今回はこのくらいにして、別の機会に譲ることにします。
 
 
とにかく、「気」というものは、具体的に実感できるものだから、「本当の自分」というものが、肉体ではなく、「気」という、目に見えない霊魂(私は、肉体の中の気の組織と言っています)だということも、わかるのです。
 
禅でも、ヨガでも、天風先生の心身統一法でも、「本当の自分」とか何か、ということがわかることが目的でしょ。

家庭における夫の役目

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新聞の「人生案内」欄は、ほぼ、毎日、目を通すようにしている。
 
身につまされるような相談もある一方、解答欄は、案外つまらないものが多く、飛ばしてしまうことが、よくある。
 
 
先日(2013年12月6日)の読売新聞の人生案内に、「大を流さない夫」と題して、次のような相談が載っていた。
 
「30代の主婦です。子供もいますが、結婚以来、夫について『信じられない』と思うことが色々あり、戸惑っています。例えば、朝起きても顔を洗わず、歯もほとんど磨きません。夜は風呂にも入らず、テレビを見ながら寝てしまいます。
あとは、これが一番やめてほしいのですが、トイレで大を流し忘れることもしばしば……。私の実家でも忘れたことがあり、外でもそうなのではと心配です。仕事熱心で家族のために頑張ってくれている夫には感謝していますし、大切な存在であることには変わりません。ですから、育児にあまり協力しなくても、家でだらだらしていても、疲れが取れるなら、とうるさく言わないようにしています。
でも、ちゃんと風呂に入ってベッドで寝た方が疲れは取れるし、社会人として身だしなみぐらいはきちんとしてほしいのです。これ以上、うるさく言わない方が良いですか。(宮城・S子)」
 
 
回答者は、野村総一郎という精神科医だったが、「お困りのトイレの流し忘れですが、これは電車の運転士や、近頃は看護師さんなどがやっている『指差し確認』の励行をお勧めします。トイレを出る時に『大!出発進行!』と必ず指差して、流れて行くのを確認すれば良いのです。」
 
といった、冗談とも、本気ともつかない、取るに足りない、つまらないものだった。
 
 
問題なのは、この回答によって、質問者が少しでも満足を得られたか、ということである。
 
私は、100%、この質問者は、この回答では満足しなかっただろう、と思います。
 
 
何故なら、この質問の中には、「大を流すとか流さない」とか以上の、より重大な問題が、潜んでいるからである。
 
 
質問したご本人も気がついてないかもしれないが、
 
この奥さんは、本当は、「自分の亭主を、一家の主人として尊敬することができないのですが、どうしたらいいでしょうか?」ということを聞きたかったのだと思います。
 
つまり、この奥さんは「自分の亭主を、子供たちにも、或いは、世間に対しても、そして自分も、一家の主人として、一人の人間として、尊敬し、頼りにしたいのだが、それが出来ないので困っています」というのが本音ではないでしょうか?
 
 
よく言われることは、人間は、動物としての一面と、そして、その外に、他の動物にはない、高度な精神活動を持っていることが、最も大きな相違点であり、特徴だと言われてます。
 
つまり、人間も動物である点においては、他の動物と変わらないが、高度な精神活動、つまり、理想を求め、真理を愛し、正義を求めるという点において、他の動物とは大きく異なっている、というのです。
 
これを言い換えるなら、人間は、単なる動物と言うだけでなく、神の一面を備えた、いわば、半神半獣とも言うべき生き物、と言えると思います。
 
 
だから「動物は、愛だけでも育つが、人間は愛だけでは育たない」、と言われるのです。
 
 
つまり、家庭において、子供は、母親の愛が必要であると同時に、人間として立派に育つには、その他に、理想を持ち、真理を愛し、正義を求める心が育たなければならないのです。
 
理想を求め、真理を愛し、正義を求める心を育てる役割を担っているのが、父親なのです。
 
 
だから、この奥さんも、自分も含めて、子供達にとって、父親は、理想を求め、真理を愛し、正義を求める人であってほしい、と思っているのです。
 
 
よく街角で見かける光景ですが、子供が父親の手にすがって、甘えて、見上げている顔の、なんと誇らしげなこと。
 
どんな、貧しく、みすぼらしい服を纏った、貧相な男であっても、その子供たちにとっては、この世で唯一最も尊敬する人なのです。
 
否、そうあってほしい、と子供たちが願っているのです。
 
 
それを、どうだろう、朝起きても、顔も洗わず、歯も磨かず、トイレに入ったら、大を流さず、夜は、風呂にも入らず、ただ、テレビの前でゴロゴロしているだけの父親を、誰が尊敬するというのでしょうか。
 
この家の主人は、奥さんばかりでなく、子供たちの、自分の父親は、世界一立派な、尊敬する人物と思いたい心を、めちゃくちゃに踏みにじっているのです。
 
このように、夢や希望を踏みにじられた家庭に、まともな子供が育つとは、とても思えません。
 
 
時折、家庭崩壊などという言葉も聞かれますが、家庭崩壊の本当の原因は、男が、一家の主人としての役割を見失っている点にあるのです。
 
つまり、男は、外で働いて、お金を家に入れさせすれば、一家の主人として役目は、それで終わり、と思っている点に、真の家庭崩壊の原因があるのです。
 
そして、また、男にとって、家庭とは、ただ単に、休養する為だけの場、と思っていることに問題があるのです。
 
即ち、父親が、父親としての役割は、家庭の中で、妻や子供たちに、人間としての生き様を、具体的に示してやることにある、と思っていないところに、問題があるのです。
 
 
実は、この新聞の人生案内の相談者も、トイレを流す、流さないは枝葉末節の問題で、本当は、子供たちに、主人のだらしない生活を見せたくない、と思っている筈です。
 
この奥さんは、主人が、子供たちの心を、ひどく、傷つけていることを、本能的に知って、心配しているのです。
 
 
世の男たちよ、貴方達は、国の総理大臣や、自分の会社の社長は、立派で尊敬できる人であってほしい、と願っていませんか?
 
同じように、奥さんや子供達は、貴方を、尊敬できる人であってほしいと願っているのですよ。
 
 
どこかの人物論の本の中で、「秘書に尊敬されてないような社長は信用するな」と書いてあるのを思い出しました。
 
なぜなら、秘書は、日頃、社長の一番近くいて、生の、裸の、社長の実態をよく知っているからというのです。
 
 
そういうことからすると、「奥さんや、子供に尊敬されていないような男は、信用するな」ということもできるのです。

プラナヤーマ法

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一般には、プラナヤーマのことは、「呼吸法」と称されるらしい。
 
プラーナとは、いわゆる「気」のことを言い、ヤーマとは制御という意味を持つらしいから、プラナヤーマをそのまま訳せば、「気の制御法」とでも言えるだろうか。
 
 
そういうことからすると、プラナヤーマを「呼吸法」と呼ぶのは、厳密な意味からしたら正しくない。
 
ただ、ヨガでいうところのプラナヤーマは、実際にやっていることは、呼吸法には違いなく、呼吸に深く関わっていることでは、あるいは「呼吸法」と訳しても、あながち間違いではなさそうだ。
 
 
(財)天風会でも、行事の一環として、プラナヤーマというのをやっていて、実際にやっていることは、「深呼吸」と、ほぼ変わりない。
 
 
長年、私は、プラナヤーマというのは、「気」を体内に取り入れる方法なのに、どうして、「呼吸法」といい、そして実際に教えられることも呼吸の仕方なのか、その真意が、よくわからないでいた。
 
 
ところが最近、
 
瞑想をしていて、特に、三昧の境地(最近は、座っている間の大半が三昧なのだが)に入った時、
 
呼吸が長く深くなり、或いは、しているのかしていないのか、よくわからないような状態になった時、息を吐いている時に、「気」が入って来るのを、はっきり意識するようになった。
 
 
そうことからして、呼吸することによって、空気を吸い込む時に、酸素を肺の中に取り入れ、吐く時に、炭酸ガスを吐き出すと同時に、印堂又は頭頂といった、別の気の取り入れ口から、「気」を取り入れているのではないか、と思うようになった。
 
 
今、天風会では、呼吸は吸う時よりも、吐く時に、大量に、長く息を吐き出せ、多く吐き出せば、その分、又、入っている空気の量も多くなる、と教えるが、
 
 
往時、天風先生が(ヨガも同じ)考えたことは、空気の量もさることながら、プラナヤーマをすることによって、「気」をできるだけ多く体内に取り込む、ということに、その真意があったに違いない、と思う。
 
 
でなかったら、空気を肺の中に、できるだけ多く取り込むことが、本来の目的だったら、何も、特別、「プラーナ」(気)という言葉を使うことはないだろ、と思う。

丹田が痛い

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痛いと言っても、別に、病気ではない。
 
 
瞑想の時、「気」が印堂(印堂と言っても、最近は、限られた狭い一部分ではなく、前頭部全体から気が入ってくるように感じる)から入って、喉を通り、丹田まで降りて来て、来てそこで止まるから、痛いのである。
 
言うならば、棒状の気の塊が、丹田の底を突っつくようにするから、痛いのである。
 
 
痛いばかりでなく、その時、丹田は、硬く、パンパンに張ったようになる。
 
 
以前、天風先生が、裸で瞑想をしている写真を見たことがあるが、いずれ、俺の下腹も、あのように張って来るのではないかと思う。(いや、もう既に、少し張っているかもしれない)
 
 
天風先生は、本当の自分とは、肉体でもなく、心でもなく、霊魂と呼ばれる気体である、と言っているが、
 
霊魂と言えば、いかにも、小さな、数ミリ程度の塊を連想させるが、
 
私の感じるそれは、まるで、頭部から丹田を貫く、15~20センチの棒状の何かを思わせる。
 
 
しかも、棒状のそれは、私の頭部をつつぬけ、外部に広がっているように感じる。
 
しかし、頭部を過ぎたあたりから、後、どうなっているのかよくわからない。
 
 
天風さんは、この棒状の気の塊を総称して、霊魂と言っているのか、この棒状の塊のどこかに霊魂という特別なものが存在しているのか、私にもよくわからない。
 
今のところ、棒状の気の塊の中の、別の箇所に、何か、特別なものを感じることはないから、天風先生は、この棒状の気の塊を、霊魂、つまり、本当の自分、と言ったのだろう、と解釈している。
 
 
この棒状の気の塊は、薄い靄か霧のような形をしている。
 
と言っても、肉眼で見えるわけではない。
 
しかし、目に見えるようにして、はっきりわかるのだから、霊感で見ているのだろう。
 
つまり、霊視によって、見ているのだろう。
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